仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘、仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣鷹司政?の娘で仁孝女御(後、中宮)の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子[1]。
女御
九条夙子(英照皇太后)(1834-1897)
第一皇女:順子内親王(1850-1852)
第二皇女:富貴宮(1858-1859)
養子:睦仁親王(明治天皇)
典侍
坊城伸子(1830-1850)
第一皇子:妙香華院(1850)
中山慶子(三位局)(1835-1907)
第二皇子:睦仁親王(明治天皇)(1852-1912)
堀河紀子(1837-1910)
第三皇女:寿万宮(1859-1861)
第四皇女:理宮(1861-1862)
今城重子(1828-1901)
今城尚子
養子
載仁親王(三宝院門跡、還俗後に閑院宮を相続)
貞愛親王(伏見宮)
博経親王(知恩院門跡、還俗後は華頂宮)
智成親王(聖護院門跡、還俗後は北白川宮)
(114)中御門天皇 (115)桜町天皇 (117)後桜町天皇
(116)桃園天皇 (118)後桃園天皇
(閑院宮)
直仁親王 典仁親王
(慶光院) 美仁親王
〔閑院宮へ〕
(119)光格天皇 (120)仁孝天皇 (121)孝明天皇 (122)明治天皇
輔平
(鷹司基輝養子) 親子内親王
(和宮、徳川家茂夫人)
幼名は煕宮。天保11年(1840年)に立太子。弘化3年(1846年)の父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創設した。
嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下したこともあった(文久3年(1863年)3月の攘夷勅命)。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が荒れ狂った。孝明天皇は攘夷の意思が激しく、異母妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだ。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸している。京都守護職であった会津藩主松平容保への信任は特に厚かったと言われる。
しかし慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た諸外国海軍は艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求して、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった(もっとも、遺品として時計が残るなど、西洋文明を全く否定していた訳ではない)。
翌・慶応2年(1866年)12月25日、義弟・家茂の後を追うように、在位21年にして崩御。享年37(満35歳没) 。死因は天然痘と診断された。
孝明天皇と漢風諡号が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
孝明天皇の埋葬にあたっては、文久の修陵で活躍した山陵奉行・戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、従来の仏式葬の石塔から古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺内に円墳を模した後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)が築かれた。
平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮に、昭和15年(1940年、皇紀2600年)に平安京最後の天皇として合祀された。