慶應2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのも聞かずに参加し、翌12日に発熱する。天皇の持病である痔を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記よれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙(日常の健康管理を行う主治医格)であった高階経由が拝診して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。14日、典医筆頭のひとりで、中山慶子の執匙を務める山本隨が治療に参加、15日には伊良子光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が行われた。
12月16日(1月21日)、山本隨・高階経由・伊良子光順と、高階経由の息子・高階経徳の計4名で改めて拝診した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。
執匙の高階経由は痘瘡の治療経験が乏しかったため、経験豊富な西尾兼道・久野恭(いずれも小児科医)を召集して[2]拝診に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、17日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。
これ以後、天脈拝診(実際に天皇の体に触れて診察すること)の資格を持つ13人に、西尾兼道と久野恭の2人を加えた15人の典医たちを下記の3班に分けて、24時間体制での治療が始まった。
第1班
筆頭:藤木篤平 (従四位上 典薬権助兼伊勢守)
執匙:高階経由 (従四位下 典薬少允兼安芸守)
山本正文 (従五位上 図書頭兼安房守)
高階経支 (従五位下 丹後守)
高階経徳 (正六位下 筑前介)
第2班
筆頭:山本隨 (従四位下 典薬大允兼大学助兼大和守、後に恭隨と改名)
河原実徳 (正五位下 典薬少属兼伊予守)
西尾兼道 (従五位上 土佐守、本来は小児科医だが痘瘡治療経験豊富のため召集)
大町淳信 (従五位下 弾正大弼兼周防守)
久野恭 (正六位下 出羽介、本来は小児科医だが痘瘡治療経験豊富のため召集)
第3班
筆頭:藤木静顕 (従五位上 近江守)
伊良子光順 (従五位上 織部正兼陸奥守)
福井登 (従五位上 主計助兼豊後守、後に貞憲と改名)
三角有紀 (正六位下 摂津介)
伊良子光信 (従六位上 阿波介)
孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』においては、典医たちは、天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。これによれば、発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。
しかし、前述の伊良子光順の日記においては、翌25日の記録には、天皇が痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を張り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。
中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などと壮絶な天皇の病状が記されている。それでも天皇の喪は秘され、実際には命日となった25日にも、福井登の名前で「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の報告書が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことだった。
孝明天皇は前述の通り長年のあいだ悪性の痔に悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の中山忠能日記にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚」(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)との感想が記されている。その天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
その後明治維新を過ぎると、世の中には皇国史観が形成され、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明天皇の暗殺説を論ずる事は長く封印されたが、1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において京都の婦人科医・佐伯理一郎が、「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している[3]。
そして、第二次世界大戦に日本が敗北し言論に対するタブーが霧散すると、俄然変死説が論壇をにぎわすようになる。まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、『孝明天皇は病死か毒殺か』『孝明天皇と中川宮』などの論文を発表したねずまさしである。ねずは、典医たちが発表した「御容態書」のとおり天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も前述の佐伯と同様に岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。
1975年(昭和50年)から1977年(同52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した光孝は、断定こそ避けているものの、ねずと同じく毒物による中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した[4]。
これらのほかにも、学界において毒殺説を唱える研究者は少なからずおり、1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について、これが多数説というべき勢力を保っていた。
しかし、1989年(平成元年)から1990年(同2年)にかけ、これに真っ向から反論する論文が登場する。当時名城大学商学部教授であった原口清による、『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は暗殺されたのか』である。
これらの論文において原口は、
12月19日までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わってゆくこと
12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること
中山慶子の12月23日付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を出す典医たちが、その実天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること
などから、典医たちの「御容態書」の、特に20日以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立せず、天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと結論付けた。
また原口は、諸史料の分析から岩倉が慶應2年12月の段階では倒幕の意思を持っていなかったことを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。
原口説が発表された後、毒殺説を唱える石井孝がこれに反論を加え、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく、結論を見るには至っていない。
しかし原口説の発表以降、毒殺説から原口説支持に転向する研究者が相次ぎ、毒殺から病死へと多数説が逆転する大きなきっかけとなった。現在でも原口説を全面的に覆すほどの新事実は発見されておらず、大掛かりな反証はほとんど試みられていない。
ただ、前述の通り毒殺説・病死説ともに「状況証拠」による推定の域を超える事はできず、物理的に証明するものが存在しないのも事実である。物理的な証明とは後月輪東山陵の発掘、すなわち孝明天皇の遺体の法医学的な調査をもってするほかはないが、宮内庁による管理のもと、天皇陵への学術上の立ち入りでさえ厳しく制限されている現在では、このような調査が実現する可能性はきわめて低い。
毒殺以外では、天皇が宮中で何者かに刺殺あるいは斬殺されたという説もみられ、「宮家の侍医が深夜呼び出されて御所に上がり、腹部を刺され血まみれになった孝明天皇と思われる貴人を手当てしたが甲斐無く絶命した」という類の話が数種流布している。