奈良時代
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新羅

詳細は新羅遣新羅使をそれぞれ参照

白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来した。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されている。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため[6]8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていた。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになったが、日本はこれを認めなかった。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれた[7]737年には新羅征討が議論に上ったが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなかった。755年安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化[8]を背景に藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備している(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなった。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされている[9]。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えたが、新羅商人の活動はむしろ活発化している。


渤海

詳細は渤海 (国)渤海使遣渤海使をそれぞれ参照

713年靺鞨族や旧高句麗人(狛族)を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅の対抗上727年(神亀4年)に日本に渤海使を派遣して国交を求め、日本に対し臣従するかたちをとった。日本もこれを「蕃国」高句麗の再来としてその朝貢を歓迎し[10]、また新羅との対抗関係から、渤海との通交をきわめて重視し、遣渤海使を派遣した。その渤海も、国力の充実とともに日本に対する「臣従」を必要としなくなり、771年の渤海使は上表文が無礼であることを日本に非難された。その一方で渤海使も交易に比重を置くようになり、来日の頻度も増えていった。平安時代初期には完全に変質したものとなり、824年には右大臣藤原緒嗣が「渤海使は商人であるので、今後は外交使節として扱わないように」と言うほどのものとなった[11]


隼人と南島

詳細は隼人を参照

九州南部には、地下式横穴墓・地下式板石積石室墓・土壙墓などの独特な墓制が維持された地域であり[12]、この地域の人々は古くは熊襲、7世紀後半ごろからは隼人と呼ばれるようになる。5世紀末ごろから徐々に大和王権の影響が浸透していたが、大宝律令が施行された時点でも依然として律令制的支配の及ばない地域だった。699年に三野城・稲積城が築かれ、律令国家は軍事力を背景とした支配を進めはじめる。709年には隼人の朝貢制度が始まり、朝廷において蝦夷とともに異民族たる「夷狄」が服属していることを示し、国家の儀礼において重要な役割を与えられた[13]。しかし支配への抵抗も強く、特に720年には7年前に新設された大隅国の国守陽侯麻呂が殺害される事件が起こった。これに対して律令政府は大伴旅人を大将軍として大規模な軍を派遣し、翌年までかかって鎮圧した。その結果722年にははじめて造籍が行われ、以後隼人の組織的な抵抗はなくなった。ただ奈良時代における隼人はあくまで朝貢の対象であり、大隅・薩摩の両国に班田が行われるのは、平安時代に入った800年(延暦19年)のことである。

一方今の南西諸島からは、すでに7世紀の前半から使者が大和王権に「朝貢」するようになっていたが、698年には覓国使が南島に派遣され、翌年多?(種子島)、夜久(屋久島)、菴美(奄美大島)、度感(トカラ列島または徳之島)が朝貢に訪れ、702年には行政組織としての多禰島が設置された。南島からは工芸品の材料となる夜光貝や赤木といった特産物がもたらされ、また南島へは鉄器がもたらされた[14]大宰府跡からは「掩美嶋」(奄美大島)・「伊藍嶋」(沖永良部島か)と書かれた木簡が出土しており、また奄美大島奄美市の小湊・フワガネク遺跡から夜光貝による貝匙製作跡が見つかっている。しかし9世紀になると「国なくして敵なく、損ありて益なし」といわれたように律令国家の関心は薄くなっていった[15]


蝦夷

詳細は蝦夷を参照

歴史上、蝦夷と呼ばれる人々がどのような人々であったのかはいまだにさまざまな論があるが、何であれ中華思想に基づいた律令国家にとっては、「自らの支配下の外側にある人々という概念でしかな」かった[16]。7世紀半ばに阿倍比羅夫らが遠征し、現在の秋田や津軽地方、さらにその北方に至ったとされるが、8世紀初頭に律令国家に安定的に組み込まれていたのは、今の山形県庄内地方や宮城県中部以南までであった。当時は城や柵(城柵官衙と呼ばれる施設)が作られ、その周囲に柵戸(きのへ)と呼ばれる民が関東や北陸地方から移民させられて耕作に当たっていた。郡山遺跡(宮城県仙台市)は当時の中心的な官衙であったとみられている。平城遷都の前後から政府は急速な拡大政策をとる。708年には越後国に出羽郡をおき、712年には出羽国とした。また東海・東山道諸国の民を城柵に移し、農耕や防衛に当たらせた。これに対して蝦夷は709年および720年に反乱を起こし、720年の時には陸奥按察使上毛野広人が殺害される事態となった。政府は大軍を発してこれを鎮圧し、新たに郡と柵、さらにこれらを統括する施設として多賀城を建設した。一方日本海側では733年に出羽柵が現在の秋田市に移設された(後の秋田城)。

その後政府は蝦夷の首長を郡司に任命して部族集団の間接的な支配を行い、また個別に服属してきた者は俘囚として諸国に移民させられたりした[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki