奈良時代
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平城京の造営と和同開珎

詳細は平城京和同開珎蓄銭叙位令をそれぞれ参照

元明天皇即位の翌年にあたる708年慶雲5年)正月、武蔵国自然銅を献上したのを機に「和銅」と改元され、翌2月には、貨幣の鋳造と都城の建設が開始された。2月11日、鋳銭をつかさどる催鋳銭司がおかれ、2月15日、平城遷都の詔が出された。


平城遷都と橘賜姓

「平城遷都の詔」によれば、新都は「方今、平城之地、四禽叶図…」とあり、「四神相応の地」が選ばれた。藤原京は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点ともなった。しかしそれだけではなく、藤原京は唐との交流が途絶えた時期に造られたため、古い書物(『周礼』)に基づいた設計を行ったと考えられ、当時の中国の都城と比しても類例のないものとなっていた。実際には、30数年ぶりに帰国した遣唐使粟田真人が朝政にくわわってこれらの問題が明るみになり、また唐の文化や国力、首都長安の偉容や繁栄などを報告したことが、藤原京と長安との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられる[20]。その根底には、壮麗な都を建設することが、外国使節や蝦夷・隼人などの辺境民、そして地方豪族や民衆に対して天皇の徳を示すことに他ならず、国内的には中央集権的な支配を確立するとともに、東夷の小「中華帝国」を目指したものに他ならなかった[21]。9月、元明天皇はみずから平城の地を視察し、造平城京司の長官ら17名を任命、10月には伊勢神宮勅使を派遣して新都造営を告げ、11月、平城宮予定地のため移転させられる民家に穀物、布を支給、12月には地鎮祭を行い、造営工事を開始した。

この年(和銅元年)、遷都を主導した藤原不比等は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。地名や職掌にかかわる名が一般的ななかで植物の名を氏名とするのは稀有なことであり、彼女の生んだ皇子たちは橘を名のって、橘氏の実質上の祖となった。なお、これにより橘諸兄と改名した葛城王と、のちに皇后となる光明子(光明皇后)とは、三千代を母とする異父同母の兄妹にあたる。

平城京の造営工事はきわめて短期間のうちに遂行された。工事着工後の1年4か月後の和銅3年(710年)3月には平城遷都が決行されたが、このように急ピッチでの遷都が可能であったのは、寺院も含めて建物の多くが藤原京からの移築だったことによる。近年の知見では新都平城京の規模は旧都藤原京とほぼ変わらず、むしろ藤原京のほうが広いぐらい[22]であり、長安城に比較すれば4分の1程度にすぎなかった。平城京の特色としては「外京」という右京からの張り出し部分を設けたことで、完全な矩形ではないことである。「外京」はむしろ今日の奈良市の中心街となっている。平城京に所在する建物は、唐風建築のみならず、掘立柱で板敷の高床建築で屋根は檜皮葺という前代よりの伝統的な日本風建築も多かった。


和同開珎と蓄銭叙位令和同開珎銀銭

都城の造営は短期間にすすめられたが、貨幣の鋳造のスピードもはやかった。708年2月に催鋳銭司がおかれ、同年5月にははやくも和同開珎銀銭、同じく8月には銅銭が発行されている。銀銭の発行が早かったのは、秤量貨幣としての銀の通用の伝統があったためとみられる[4]

平城京が持統天皇期の藤原京の発展形であったのと同様、和同開珎もまた富本銭の発展形であり、また唐の銭貨にならったものであった。銭貨は新都の造営にやとわれた人びとへの支給銭など宮都造営費用の支払いに利用され、政府はさらにその流通をめざして和銅4年(711年)10月に一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるとする蓄銭叙位令を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などを物品貨幣とする交易が広くおこなわれていた。蓄銭叙位令は一種の売官制であり、かえって貨幣の死蔵がすすみ、円滑な貨幣交換がさまたげられることがあった。政府は、こののちも銅銭の鋳造をつづけ、10世紀の乾元大宝まで12回にわたり国家的に銭貨の鋳造はおこなわれた。これを、皇朝十二銭という。

一方で、私鋳銭禁止令が和同開珎鋳造と同じ和銅元年(708年)に出されている。役人が位階獲得を目的に私鋳銭を製造しないよう、私鋳銭製造に対しては官位剥奪、「斬」(首を切る極刑)の罰が加えられた。


政争と皇権の動揺


長屋王の変と光明子立后

この時代の初め、鎌足の息子藤原不比等があらわれて政権をにぎり、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかためた。不比等死後に政権を担当したのは、高市皇子の子で天武天皇の孫にあたる長屋王であった。彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、社会不安が表面化したため、政府は財源確保のため723年(養老7年)には、三世一身法を施行して開墾を奨励した。不比等の娘藤原宮子を母とする聖武天皇が724年神亀元年)ころから、不比等の子武智麻呂房前宇合麻呂藤原四兄弟が政界に進出した。729年(神亀6年)、左大臣にのぼった長屋王に対し藤原四兄弟は「左道によって国政を傾ける」と讒訴して、自殺に追いこみ(長屋王の変)、政権を手にした。変の直後、藤原氏は不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した。


橘諸兄政権と聖武天皇

その藤原四兄弟737年(天平9年)に天然痘の流行で相次いで死亡すると、皇族出身の橘諸兄が下道真備(のちの吉備真備)や僧玄ムを参画させて政権を担った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki