710年に都は奈良の平城京に遷った。この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握し、租・庸・調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。古事記、日本書紀、万葉集など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。
政治史的には、710年の平城京遷都から729年の長屋王の変までを前期、藤原四兄弟の専権から764年の藤原仲麻呂の乱までを中期、称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できる[1]。
618年、隋に変わって中国を統一した唐は、大帝国をきずき、東アジアに広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジアや中央アジアなどとの交流も活発であり、首都長安は国際都市として繁栄し、玄宗の治世前半は「開元の治」と称された。周辺諸国も唐と通交し、漢字・儒教・漢訳仏教などの諸文化を共有して東アジア文化圏が形成された。
その中にあって日本の律令国家体制では、天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、唐と同様、日本を中華とする帝国構造を有していた。それは国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、それが及ばない外部を「化外」と区別し、さらに化外を区分して唐を「隣国」、朝鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった[2][3]。もちろん律令にそう規定し、それを自負したり目指したことと、とりわけ唐や朝鮮諸国との関係に実態がともなったかどうかは別の問題である。東大寺の正倉院
聖武天皇・光明皇后にかかわる遺品が数多く収められている
630年の犬上御田鍬にはじまる日本からの遣唐使は、奈良時代にはほぼ20年に1度の頻度で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生や学問僧なども加わり、多いときには約500人におよぶ人びとが4隻の船に乗って渡海した。日本は唐の冊封はうけなかったものの、実質的には唐に臣従する朝貢国の扱いであった[4]。使者は正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。ただし、当時の造船術や航海術はなお未熟な点も多く、海上での遭難も少なくなかった。そのような危険を冒してまで遣唐使たちは、多くの書籍やあるいはすぐれた織物や銀器・陶器・楽器などを数多く持ち帰り、また、唐の先進的な政治制度や国際色豊かな文化をもたらし、当時の日本に多大な影響をあたえた。中でも知識に対する貪欲さはすさまじく、皇帝から下賜された品々を売り払って、その代価ですべて書籍を購入して積み帰ったと唐の正史に記されるほどであった[5]。文物だけでなく、知識を身につけた留学生や留学僧も日本に戻って指導的な役割を果たしている。とくに、帰国した吉備真備や玄?は、のちに聖武天皇に重用され、政治の世界でも活躍した。
白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来した。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されている。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため[6]、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていた。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになったが、日本はこれを認めなかった。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれた[7]。737年には新羅征討が議論に上ったが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなかった。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化[8]を背景に藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備している(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなった。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされている[9]。