太陽の季節
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この項目では、日本の小説について説明しています。ずうとるびの楽曲については「太陽の季節 (ずうとるびの曲)」をご覧ください。
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太陽の季節
訳題Season of the Sun
作者石原慎太郎
日本
言語日本語
ジャンル短編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『文學界1955年7月号
出版元文藝春秋新社
刊本情報
出版元新潮社
出版年月日1956年3月15日
総ページ数275
受賞
第1回(1955年度)文學界新人賞
第34回(1955年下半期)芥川賞
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『太陽の季節』(たいようのきせつ)は、石原慎太郎短編小説。裕福な家庭に育った若者の無軌道な生活を通して、感情を物質化する新世代を描いた作品で、石原の出世作である。ストーリーが倫理性に欠けることで、発表されるや文壇のみならず一般社会にも賞賛と非難を巻き起こした[1]

1955年昭和30年)、文芸雑誌『文學界』7月号に掲載され、第1回(1955年度)文學界新人賞を受賞。翌年1956年(昭和31年)1月23日には、第34回(1955年下半期)芥川龍之介賞を受賞[2]。単行本は1956年(昭和31年)3月15日に新潮社より刊行された。文庫版は新潮文庫で刊行されている。
作品成立・概要

ストーリーは石原慎太郎の弟・石原裕次郎が、ある仲間の噂話として慎太郎に聞かせた話が題材になっているという。また、文芸誌に発表した処女作『灰色の教室』にも、本作の題材になった話が1エピソードとして収録されている(ただし、登場人物の名前は異なる)。石原は後年、本作を書くに当たり「インモラルという人間にとってはいわば永遠の主題を、現代のアンファン・テリブルにかぶせて書いたら大人たちは少しはどきりとするだろうと思った」と自らの小説『弟』の中で語っている。

文學界新人賞に応募する際、石原は「出だしの外連で相手の目を引きつけるため」として、作品の冒頭にシモーヌ・ド・ボーヴォワールの書いたマルキ・ド・サドの作品についての評論の一節をエピグラフとして付けていたが、賞の選考段階で選考委員から「エピグラフを外したらどうか」という意見が出たため、石原が『文學界』の編集部に呼ばれ、編集長から「エピグラフを外した方が良い」と告げられると、石原は「エピグラフを付けた効果はあった」と判断して外すことに同意し、エピグラフを外した形で受賞が決定した。

雑誌掲載時、題名の横に、「健康な無恥と無倫理の季節! 眞の戦後派青年像は生れた」というキャッチコピーが付され[1]、単行本が刊行されると芥川賞受賞も相まり、ベストセラーとなった。なお、この時代は神武景気といわれる好景気で、1956年(昭和31年)度の「経済白書」には、「もはや戦後ではない」という文言が記された時代であった[1]。単行本・文庫本を合わせた現在までの発行部数は100万部を越える。

1956年(昭和31年)5月に映画化され人気を博すが、その内容が問題になり、制作者の内部機関だった「映画倫理規程管理委員会」が外部の第三者も参加する「映画倫理管理委員会」(現・映画倫理委員会)と改められるきっかけとなる[3]

石原が幼少期を過ごした神奈川県逗子市の逗子海岸には、「太陽の季節 ここに始まる」という彼の自筆が入ったモニュメントが建立されている。

2002年(平成14年)にはTBSテレビによってテレビドラマ化されたが、ストーリーは小説と全く異なる。
あらすじ

高校生・津川竜哉はバスケット部からボクシング部に転部し、ボクシングに熱中しながら部の仲間とタバコバクチ・女遊び・喧嘩の自堕落な生活を送っている。

ある日、竜哉は街でナンパした少女の英子と肉体関係を結び、英子は次第に竜哉に惹かれていく。だが竜哉は英子に付き纏われるのに嫌気がさし、英子に関心を示した兄・道久に彼女を5千円で売りつける。それを知った英子は怒って道久に金を送り付け、3人の間で金の遣り取り(契約)が繰り返される。

ところが英子が竜哉の子を身籠ったことがわかり、妊娠中絶手術を受ける。手術は失敗し英子は腹膜炎を併発して死亡した。葬式で竜哉は英子の自分に対する命懸けの復讐を感じ、遺影香炉を投げつけ、初めてを見せた。竜哉は学校のジムへ行き、パンチングバッグを打ちながら、ふと英子の言った言葉を思い出した。「何故貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの」。竜哉はその瞬間見えた英子の笑顔の幻影を夢中で殴りつけた。
文學界新人賞・芥川賞の選評

『太陽の季節』は受賞作にはなったものの、選考委員の評価は必ずしも高いとは言えず、反倫理的な内容についても評価が分かれた。作品にみなぎる若々しい情熱が評価され激賞される一方で、同時に賛成派からも、文章の稚拙さや誤字があるなど多くの欠点が指摘されている。

文學界新人賞の選評者5名中、賛成派が伊藤整井上靖武田泰淳の3名。反対派が平野謙吉田健一の2名[4]芥川賞の選評者9名中、賛成派が舟橋聖一石川達三、井上靖の3名。しぶしぶ支持派が瀧井孝作川端康成中村光夫の3名。強固な反対派が佐藤春夫丹羽文雄宇野浩二の3名であった[5]

なお、文藝春秋社の内部からも否定的な声があがり、当時『文學界』の編集者だった尾関栄は、「編集部員の一人が熱烈に支持したので、芥川賞候補にノミネートしたが、個人としては好きになれなかった。性器で障子を破るシーンにしても、武田泰淳さんの『異形の者』のなかにすでに同様の場面があり、賞に値するかどうかで相当迷った」と回想している[6]。刊行本が文藝春秋からでなく新潮社になったのも、当時、文藝春秋出版部長だった車谷弘が、「俺の目の黒いうちはこんなものは出せん」と出版を許さなかったからだと、同社元専務の西永達夫が語っている[1]
賛成派

伊藤整は、「いやらしいもの、ばかばかしいもの、好きになれないものでありながら、それを読ませる力を持っている人は、後にのびる」と推奨し[4]武田泰淳は、「彼は小説家より大実業家になるかも知れない」と述べている[4]


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