太政官
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政体書

詳細は政体書を参照ウィキソースに ⇒政体書の原文があります。

1868年6月11日慶応4年旧閏4月21日)、副島種臣福岡孝弟の起草による、基本法ともいえる政体書(慶応4年太政官達第331号)が、太政官の名で布告された。政体書は、新政府の政体を「五箇条の御誓文」に基づくものとし、権力分立・官吏公選・府藩県三治制などについて規定している。この政体書に基づいて6月17日旧閏4月27日)新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して、同時に内部では権力分立を行って専制権力の発生を阻止しながら、諸大名や国民を強力に支配していく体制を組織しようとしたのである。政体(慶応4年太政官達第331号)(略)一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法司法行政ノ三権トス則偏重ノ患無カラシムルナリ一 立法官ハ行政官ヲ兼ヌルヲ得ス行政官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ス但シ臨時都府巡察ト外国応接トノ如キ猶立法官得管之(略)

三職のうち総裁が廃止されて(当時、有栖川宮熾仁親王は、江戸に滞在中)、副総裁2人が輔相と称して事実上の政府首班に就いた。立法権を司る議政官は、議定・参与からなる上局と諸藩の代表(貢士)からなる下局から構成された。行政権を司るのは、行政・神祇・会計・軍務・外国の各官(官庁)からなる五官であり、特に行政官は輔相を長として他の4官を監督する役割も担った。三権を担う官のうち司法権を扱う司法官は、実際には4官同様、行政官の監督を受けていたため、司法権の独立は形骸化した。さらに、輔相は議定の資格で議政官(上局)の構成メンバーでもあったため、権力分立は形ばかりとなっていた。

戊辰戦争終了後の1869年明治2年)に入ると、版籍奉還が実施されて、諸藩は政府の地方機関として位置づけられた。そこで、会計官から地方行政を扱う民部官が独立した。続いて政体書に基づく「官吏公選」が行われて守旧派の公家や諸侯は事実上排除される形となった。また、監察機関として弾正台が設置された。


太政官制

こうした政治情勢の変動に対応して、1869年8月15日(明治2年7月8日)に、新しい太政官制が導入された。これは、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であった。まず神祇官が復活して太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には民部省大蔵省兵部省刑部省宮内省外務省が設置されるという二官六省制が採られ、侍詔院・弾正台集議院大学校などの諸機関が置かれた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた事が特徴である。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。三職は明治天皇に対して「三職盟約」・「約束四条」と呼ばれる誓約を行って天皇への忠誠と公正な政務を誓った。また、これに伴い「官位相当表」が改正され、左右両大臣は従一位または正二位、大納言は従二位、参議・卿は正三位、大輔は従三位、少輔は正四位とされ、また八位と初位の間に正・従の九位の位階が追加された。また、任命手続きにおいては四位以上を「勅授」・六位以上を「奏授」・七位以下を「判授」と呼んだがすぐに改められて、位階の授与については従来通り、役職の任命については勅任奏任判任と改称されることになった。

だが、蓋を開けてみると右大臣に三条、大納言に岩倉と徳大寺実則がついたのを始めとして主要官職を皇族と公家が独占して、わずかに参議に前原一誠副島種臣民部卿に前福井藩主松平慶永が武士階層から選ばれただけであった。保守派の画策によって木戸孝允大久保利通板垣退助らは閑職であった侍詔院学士に追いやられてしまったのである。これに反発した岩倉は、三条と相談して大久保と広沢真臣(後に佐々木高行も加えて)を追加任命して巻き返しを図ったのである。

こうした中で問題となったのは、民部省と大蔵省の合併問題であった。徴税機構と財政機構の一本化を目指して明治2年8月11日に両省を合併、民部卿松平慶永が大蔵卿を大蔵大輔大隈重信民部大輔を兼任した。今度は中央集権体制の確立を急ぐ木戸孝允の支持を得た大隈や大蔵少輔伊藤博文ら開明派若手官僚の画策であった。一方、大久保らはこうした動きに対して、新省が太政官を上回る権限を持つとして反発し、他の参議や地方官と結んで大隈・伊藤の排撃と再分離を求めた。その結果、1870年8月6日(明治3年7月10日)に大久保が主導して両省の再分離が決定された。だが、最終的に両派の間で妥協が成立して、1870年12月12日に(明治3年閏10月20日)殖産興業を専門に扱う工部省の分離と引き換えに1871年9月11日(明治4年7月27日)に民部・大蔵両省の再合併が決定された。これは廃藩置県などの推進の過程で大久保が中央集権の必要性を認めて木戸らの方針に同意する方向へと変わると同時に、殖産興業の分離で合併後の新省が持つ権限の分割に成功したこと、更には将来の政府を担う開明派若手官僚との全面衝突を避けたいとの思惑があったからであると言われている。更に1871年に入ると廃藩置県に向けた政府内の動きが密かに動き出し、薩摩・長州・土佐3藩の兵を御親兵として集めるとともに、郷里に帰っていた西郷隆盛と板垣退助を呼び戻した。


廃藩置県後の官制

1871年8月29日(明治4年7月14日)、廃藩置県が断行された。ほぼ前後して司法省文部省が設置され次いで正院(中央政府)・左院(諮問機関)・右院(調整機関)が設置され、神祇官が神祇省に格下げされるなどの改革が断行された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen