大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。
大日本帝国憲法を文言通りに解釈すると、天皇は大きな権力を持っていたように読める。しかし、憲法制定後以降、条文の天皇の地位の規定は近代的な立憲君主的に解釈されてきて(天皇機関説)、実際の運用もそのようにされてきた。つまり天皇機関説は国家公認の通説であった。
しかし昭和に入り軍部の専横が激しくなっていく過程で軍部と結託した一部政治家や右翼がいわゆる天皇機関説事件を起こし、軍部、右翼の攻撃の前に政府はついに昭和10年、国体明徴声明を出さざるを得なくなった。ここに明治憲法下における近代的立憲君主としての天皇は終わり、終戦まで続く狂信的な神権的天皇像が作り上げられていくこととなる。
神道と仏教と天皇明治から戦争直後までの天皇と神道との関係は国家神道・国体を参照。
天皇の歴史は神話までに遡ることができる。現在においても天皇と神道は新嘗祭などで結ばれている。国事行為だけでなく宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝等「祈り」を行う存在としての天皇も意義深い。
また、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、明治4年までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。法事は仏式で行われていた。維新以後は一千年続いた仏式の行事はすべて停止され、「尊牌」と称された天皇や皇族の位牌は京都の泉涌寺にまとめられ、天皇家とは縁切りということになり、仏教とは疎遠となった。
天皇は日本の歴史において重要な権威を有していたが、実際に君主として統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べ極端に短く、ほとんどが天皇以外の貴族や武家、官僚などによって統治権は行使されている。とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。
しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位についていたことが多い。例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の君主である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。
ただし、外交において有事が発生した際、その権力者たちも朝廷に相談を持ちかけているため、幕府などの武家政権が内外とも全面的に統治権を行使する認識があったかどうかは考慮が必要である(元寇や黒船来航等)。時にとりわけ大きな力をもった権力者が天皇という地位を廃止、あるいは簒奪を画策したことがあるとされているが、現在までに成功した例はないとされている。
天皇家の系図は、『古事記』・『日本書紀』を初めとする史書に基づいて作られ、その起源は紀元前660年に即位した神武天皇、さらにはその始祖であるクニノトコタチなどの神々に始まるとされている。しかし、日本書紀は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいる。
そのため、天皇家の祖先にまつわる伝承や事績、および初期の天皇の実在については、歴史学的にはその実在性を疑問視されることが多い。 特に欠史八代の天皇については、古代中国の革命思想(讖緯説)に則って天皇家の歴史を水増したのではないかと指摘する否定説が戦後学会では主流である(実在説もある)。歴史学的に証明できる天皇家の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王)が統治していた古墳時代あたりまでである。
3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、このときに成立した王朝が天皇家の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国の卑弥呼の系統を天皇家の祖先とする説、天皇家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。
詳細は倭の五王を参照
中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代の劉宋王朝に朝貢した「倭」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を仁徳天皇・履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。
これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「大王」が用いられていたと考えられている。
『宋書』には、次のような倭王・武の上表文[6]が引用されている。
「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。