天皇
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当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。


以降

不安定な基盤にのっていた王統が確立したのが継体の子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇家を中心とした政府が形成され始めることとなった。

また、この時期、煬帝に対して「天子」と自称した[8]と『隋書』に見える。このことから、天皇の称号の成立をこの7世紀初頭に求める意見もある。


大化の改新から摂関政治まで

大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国()の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。

特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。その治世において初めて天皇が現人神とみなされるようになり、また、この時期より天皇の称号が使用され始めたとする説もある。なお、天皇号が成立する以前の王号は、倭国王・倭王(外国向け)および治天下大王(国内向け)だったと考えられている。

律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。

しかし、平安初期の9世紀中後期ごろから、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政関白に就任するようになった。特に858年天安2年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。

摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇家の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇家の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。

もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。このころ、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗り、朝廷の任命した国司を追放し、関東7ヶ国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。

これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3ヶ月で将門が戦死して新政権は崩壊した。


院政期

平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。この説が正しければ、白河院政に先立つ最初の院政ということもできるが、後三条は譲位後半年足らずで死去したのでその真意は謎のままである。

後三条の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王更と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、今上天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。

この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の国王)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人としてふるまった摂関政治よりもいっそう強固なものであった。

治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。

後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、ときには幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。

院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の死後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手でほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い、朝廷も政府としての機能を失い、天皇を中心とする貴族たち(公家)の利益共同体に転落する。


鎌倉・室町時代

中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。

しかし承久の乱(1221年)以降の天皇の権威の失墜は著しく、モンゴル襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。天皇家もまず大覚寺統持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した。

鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐による天皇親政が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki