大隈重信
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外務大臣から総理大臣へ

大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より、大隈は外務大臣に就任した。 同年 黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年)には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失うとともに、辞職した。明治29年(1896年第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが薩摩勢と対立して明治30年(1897年)に辞職した。

明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相尾崎行雄共和演説事件をきっかけに辞職すると後任人事をめぐって対立はさらに激化。 後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。結局、組閣からわずか4ヶ月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

第一次護憲運動が興ると、政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織した。与党は立憲同志会大隈伯後援会および中正会である。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対宣戦布告をおこなった。翌・大正4年(1915年)には外相 加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。 しかし内相 大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任するなどして内閣を改造するも、内閣は次第に国民の支持を失っていった。さらに内閣に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月ついに内閣は総辞職、あわせて政界から完全に引退した。退任時の年齢は満78歳6ヶ月で、これは2008年現在も日本の歴代総理大臣中最高齢の記録である。護国寺(東京都文京区)内 大隈重信墓大隈重信墓

この間、大正5年7月に侯爵に叙された。大正11年(1922年)1月10日に早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この三週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。墓所は佐賀市の龍泰寺東京都文京区護国寺にある。


大隈の人となり

伊藤博文をライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。

明治30年(1897年)に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で大磯を引き払っている。

大隈と同郷で、かれに目をかけられた行政法学者織田萬のエッセイ集『法と人』(1943年、春秋社教養叢書)によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と悲しみつつも本気でうらやんだとのことである。

大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った[1]

口癖は「何々であるんである」。時には「何々であるんであるんである」となる。

あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。

極めて合理的な考えを持っており、日本の暦を現在使われているグレゴリオ暦に変えた。英雄を認めず、そのためか西郷隆盛を全く認めていない[要出典]。一方、西郷も大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた「西郷吉之助意見書」では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切捨て、更に同年に西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べている[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki