大躍進政策
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概説

1957年11月6日ソ連共産党第1書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼石油セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。毛沢東はこれに触発され、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越すという壮大(無茶)な計画を立案した。しかし、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。大躍進政策が始まる前に毛沢東は1956年百花斉放百家争鳴運動で共産党を批判した知識人達を1957年反右派闘争で根絶やしにしていため、再度の弾圧を恐れた知識人層は沈黙するしかなかった。しかし1959年の7月から8月にかけて、江西省廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・彭徳懐が大躍進の問題点を諫めた。この指摘が、毛沢東の逆鱗にふれ、彭の支持者も含めて政治的に失脚した。この結果、大躍進に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。 実際、これは共産主義勢力の中核であるソ連でも同じであった。ゴルバチョフが「計画、報告、計画、報告……もっと具体的な資料や案は出せないのか!」とソ連共産党幹部を叱責するまで、基本的に共産主義・社会主義国家では実体を伴わない「ノルマ<報告」が続いたのである。現実には東西陣営間の実力均衡は1970年代には崩壊していた。

また一見合理的に見えるが、経済生態系のシステムを無視した、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも、甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。


詳細

大躍進政策は多くの「運動」の総称である。ここでは、主要なものを列挙する。


大製鉄・製鋼運動


概要

1958年10月から、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなかった。


建設資材

土法炉を建設するための主な資材である耐火煉瓦の供給は皆無に等しく、一般住居用の煉瓦ですら供給不足の状態だった。このため、煉瓦製の寺院城壁など、中国全土で多数の歴史的建造物が、土法炉建設用の煉瓦採取の目的で解体・破壊された。


燃料の確保

農村部等、ほとんどの地方では木炭を燃料としていたため、必然的に土法炉の燃料にも木炭を使用することになった。この事は、木炭を生産する目的で、中国全土で樹木の大規模な伐採が開始されることを意味した。伐採の対象は事実上、無差別・無分別であり、果樹園の果樹・園芸用の灌木も例外ではなかった。石炭が入手可能な都市部でも、コークス炉(通常、石炭はコークス炉で焼いてコークスにしてから高炉に投入する。直接投入することはほとんど無い)を備えていない場合が多く、石炭を地上で直接燃やしてコークスを生産する方法を採用したことにより、結果的に大量の石炭を浪費することになった。


原料の確保

鉄鉱石は石炭同様産地が限られ、かつ供給不足の状態であり、多くの地方では砂鉄の入手すら困難な状況にあった。このため、都市部では鉄製の各種設備・構築物を解体し、農村部では鉄製の農機具・炊事用具を供出させ、それぞれ屑鉄にした上で土法炉に投入した。


結果

1117万トン生産された鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。それでも増産計画に従って生産を続けたため資源を大量に浪費する結果となった。また、この時の製鉄事業により大量の木材が伐採された為、今でも中国では毎年洪水が発生している。しかも農民が大量に駆り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。


四害駆除運動

1958年2月から、四害(伝染病を媒介するハエネズミと、農作物を食い荒らすスズメ)の大量捕獲作戦が展開されたが、スズメを大量に駆除した(北京市だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除した)ことで、かえってハエ、カ、イナゴウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。


密植・深耕運動

伝統的な農法も科学的知識に基づく近代農法もまったく無視した政策が実行に移された結果、農業などにさらに大きなダメージを与えることとなった。まず、第一に人民公社の設立などによって農村のコミューン化を強力に推し進めた。これは生産意欲の減退に繋がったが、1978年に生産責任制が導入されるまで一応システムとしては存在した。また、ルイセンコの学説に基づいた農業開発を行った。これは度を越えた密植(同じ種類の種はお互いの成長を阻害しないとする理論に基づく)や種を2メートル以上の深い穴に埋める(穴が深ければ深いほど根が発達するとする理論に基づく)事であり、農業技師の助けも借りずに素人を動員して灌漑機構を作ったりするなどという稚拙なものであった。当然のごとくこれらの手法は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。


政策の結末

結局、天災も重なって(ブリタニカ百科事典によれば[要出典]1958年から1962年までは異常気象が連続していた)、大躍進政策は経済の混乱と大量の餓死者を出すという惨憺たる結果を招いた。大躍進政策による餓死者数は2000万から5000万と言われているがはっきりした数字は分かっていない。なお、天災の影響を強調する向きもあるが、当時の気象を調べた結果、これほどの死者を出すレベルの天災ではなかったという研究もある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki