現在の日本政府は、「大東亜戦争」の定義が1941年12月12日に当時の内閣によって閣議決定されたことを事実として確認している[8]が、同時に現在「大東亜戦争」という用語を政府の公文書では使用していないことを明らかにしている[9]。実際、現行法令の条文等には「大東亜戦争」という用語は使用されていない。 一方、「太平洋戦争」という用語については、「政府として定義したことはない」としている[8][9]が、現行法令の条文などにはこの用語が使用されている。
答弁書では「昭和二十年十二月十五日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文書においてお尋ねの呼称を使用しなくなった。」「公文書においていかなる用語を使用するかは文脈等にもよるもの」とされている[9]。
なお、天皇が、この戦争について言及する際には「先の大戦」と表現することが通例となっている。
日付はいずれも日本時間である。
始まり
1937年(昭和12年)7月7日 - 盧溝橋事件
北支事変勃発。
1937年8月13日 - 第二次上海事変
支那事変(日中戦争)勃発の日付についても、1937年7月7日の盧溝橋事件とする見方と、8月13日の第二次上海事変とする見方とがある。
1941年(昭和16年)12月8日 - マレー半島侵攻、真珠湾攻撃、日本政府による対米英宣戦布告。
同日、開戦の詔書(米英両国ニ対スル宣戦ノ大詔)が発せられている。なお戦時中は12月8日を開戦記念日として、大詔奉戴日などと呼ばれていた。詔書は「聖戦の詔書」・「米国及ビ英国ニ対シ宣戦ニ際ニ下シ給ヘル詔書」ともいう。
終わり
1945年(昭和20年)8月14日 - 日本政府によるポツダム宣言受諾通告
終戦の詔書の日付も8月14日である。
1945年8月15日 - 玉音放送
1957年制定の引揚者給付金等支給法では1945年8月15日を終戦の基準としている。
1963年の閣議で全国戦没者追悼式を毎年8月15日に開催することが決定した。
1945年8月16日 - 日本軍への停戦命令
1945年9月2日 - 戦艦ミズーリ上での降伏文書調印
1952年(昭和27年)4月28日 - 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効
国際法上の戦争終了は講和条約が発効した日とされる。このため、連合国による占領下で実施された「戦犯」裁判は、国際法上は戦闘行為の継続と解釈され、A、B、C級の「戦犯」刑死者に対して、日本政府は戦死者と同等の待遇を与え、その遺族に年金を支給している。同様の理由で、「戦犯」刑死者(服役中の死亡や未決拘禁中の死亡者を含む)は、戦死者と共に靖國神社にも合祀されている。
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^ a b 「大東亜戦争ノ呼称ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準(1942年1月内閣作成)
^ a b ⇒「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」(1941年12月12日 閣議決定)
^ 『大本営機密日誌』(種村佐孝著、1952年)
^ ⇒「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN No.448、1945年12月25日)
^ 江藤淳著『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、1989年 ※文春文庫版は1994年 ISBN 4167366088)
^ これらは、米国のメリーランド大学のマッケルデイン図書館にプランゲ文庫として保存されている膨大な占領文書によって確認することができる。現在は、このプランゲ文庫の全ての資料がマイクロフィルム化されており、日本の国立国会図書館で閲覧可能である。また、市販されている比較的入手可能な書籍で言えば、勝岡寛次著『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社)が、原資料に基づきかなり多くの検閲の実例を挙げてこれらについて論証している。
^ 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争』光人社
^ a b ⇒「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書(第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)
※この質問を行った鈴木宗男衆議院議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している( ⇒第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。
^ a b c ⇒「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」に対する答弁書(第165臨時国会答弁第197号、2006年12月8日)