1945年8月の日本進駐後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、軍国主義、全体主義、極端な国家主義などを日本から排除する政策を行った。その一つが1945年12月15日付けの日本政府に対する覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(「神道指令」)[4]である。これにより、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離せないと判断され、「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの用語を公文書で使用することが禁止された。
また、1945年12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がCIE作成の「太平洋戦争史」の掲載を開始、さらに翌日からは日本放送協会から「眞相はかうだ」のラジオ放送が開始され、「大東亜戦争」という用語は速やかに「太平洋戦争」に置き換えられていった。
文藝評論家の江藤淳は、占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った宣伝政策の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」が存在したとし、これを「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」としている[5]。
占領中GHQは、公文書だけではなく、すべての出版物から「大東亜戦争」という言葉を抹殺しようと検閲を行った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」という言葉はすべて「太平洋戦争」と書き換えられた[6]。
さらに、占領政策後期においては、この「事前検閲」は「事後検閲」へと変更された。すなわち、既に印刷製本が完成した出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に都合の悪い記述(GHQへの批判等)があれば、この本自体を出版停止とした。既に印刷した出版物の発行を禁止された出版社は、莫大な損害を蒙ることとなる。この検閲によって、出版社は自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版できなくなった。江藤淳は、これを「日本人の自己検閲」と呼び、検閲は占領軍によってではなく、日本人自身によって行われたと想像されると主張している。
GHQの神道指令により、「大東亜戦争」という用語を公文書で使用することは禁止された。しかし、神道指令が講和独立によって失効した後に制定された法令の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている。「今次の戦争」という表現は、「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)といった戦後早い段階の法令にみられる。
また、「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)を皮切りに、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用されている。このうち「沖縄振興特別措置法」の別表には、「…指定区間内の国道を構成する敷地である土地のうち太平洋戦争の開始の日から復帰協定の効力発生の日の前日までに築造された道の敷地であったもの…」というくだりが見られるが、その開始日をはじめ「太平洋戦争」に関する定義を欠いている。他の法令も同様である。
日本の公教育、公文書作製、言論出版界においては、1952年の講和独立以降も、この「自己検閲」が続いたようで、「大東亜戦争」という言葉はほとんど一切使用されなかった。現在、「大東亜戦争」を使用している、いわゆる保守系の作家や評論家、雑誌や新聞も、この頃は洩れなく「太平洋戦争」と記述していたのである(一方、戦中派の一般国民の多くは大東亜戦争という言葉を遣い続けていた)。
このような風潮に対し公然と叛旗を翻した著述が、1964年に出された林房雄著『大東亜戦争肯定論』と1967年に出された名越二荒之助著『大東亜戦争を見直そう』であった。この2冊の出版に対して、左右両派から賛否の声が挙がり、論議を呼んだ。この2冊はその後も版を重ね、社会主義幻想の崩壊等の他の要因とも相まって、日本人の先の大戦に関する考え方に少しずつ変化をもたらしていった。現在活躍中の保守派知識人の多くが、かつてこの二冊を読んだことを述懐している。
また、1980年代に、作家の山中恒は、辺境社から出版した『ボクラ少国民』シリーズのなかで、戦争の目的を直視してそれに批判的であるためにあえて「大東亜戦争」の呼称を用いるべきだと主張した。これに対して、時代が平成に変わる前後から「大東亜戦争」という言葉が保守系の月刊誌で部分的に使われ始め、1990年に中村粲の『大東亜戦争への道』が出された前後からは、その使用回数がさらに増えている。『諸君!』『正論』『文藝春秋』『Voice』等での使用頻度を数えてみればそれは一目瞭然である。もっとも、『前衛』や『論座』等のいわゆる左派系の月刊誌では、「大東亜戦争」が用いられる事は、現在もほとんど皆無である。また、日刊紙では「太平洋戦争」が主流であるが、『産経新聞』は比較的「大東亜戦争」を多用する。
大東亜戦争の呼称に否定的な意見としては、大東亜戦争の呼称の使用を主張する意見は、右派勢力を中心に大東亜戦争の思想背景でもある大東亜共栄圏の理念を揚げ、戦争は解放戦争だった、良い面もあったなどといった自国中心の見解を示す者が多いこと、またこのことから「大東亜戦争」の呼称を使用する事が「戦争賛美」、「復古的国粋主義を煽る」、「中韓を初めとしたアジア諸国への侵略に対する反省が乏しい」ことを表しているとして、使用に反対する意見も根強い。これらの意見を主張している人々はリベラル・左翼が主であり、保守・右翼はこうした主張を自虐史観と非難している。
なお、旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は(中華民国やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張するべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した[7]。
他の呼び方として、1931年の満州事変と1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、十五年戦争やアジア・太平洋戦争と呼称することもある。しかし、満州事変に関しては塘沽協定(1933年)で停戦が成立しており、一続きの戦争とみなすことが妥当かについて賛否両論がある。庶民の日常感覚では、1937年以来が「戦争」であったことは、同時代の証言としては徳田秋声の『縮図』の冒頭部分の記述があり、戦後の証言としては安岡章太郎の回想がある。