大東亜戦争
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呼称を巡る状況

日本の公教育、公文書作製、言論出版界においては、1952年の講和独立以降も、この「自己検閲」が続いたようで、「大東亜戦争」という言葉はほとんど一切使用されなかった。現在、「大東亜戦争」を使用している、いわゆる保守系の作家や評論家、雑誌や新聞も、この頃は洩れなく「太平洋戦争」と記述していたのである(一方、戦中派の一般国民の多くは大東亜戦争という言葉を遣い続けていた)。

このような風潮に対し公然と叛旗を翻した著述が、1964年に出された林房雄著『大東亜戦争肯定論』と1967年に出された名越二荒之助著『大東亜戦争を見直そう』であった。この2冊の出版に対して、左右両派から賛否の声が挙がり、論議を呼んだ。この2冊はその後も版を重ね、社会主義幻想の崩壊等の他の要因とも相まって、日本人の先の大戦に関する考え方に少しずつ変化をもたらしていった。現在活躍中の保守派知識人の多くが、かつてこの二冊を読んだことを述懐している。

また、1980年代に、作家の山中恒は、辺境社から出版した『ボクラ少国民』シリーズのなかで、戦争の目的を直視してそれに批判的であるためにあえて「大東亜戦争」の呼称を用いるべきだと主張した。これに対して、時代が平成に変わる前後から「大東亜戦争」という言葉が保守系の月刊誌で部分的に使われ始め、1990年に中村粲の『大東亜戦争への道』が出された前後からは、その使用回数がさらに増えている。『諸君!』『正論』『文藝春秋』『Voice』等での使用頻度を数えてみればそれは一目瞭然である。もっとも、『前衛』や『論座』等のいわゆる左派系の月刊誌では、「大東亜戦争」が用いられる事は、現在もほとんど皆無である。また、日刊紙では「太平洋戦争」が主流であるが、『産経新聞』は比較的「大東亜戦争」を多用する。

大東亜戦争の呼称に否定的な意見としては、大東亜戦争の呼称の使用を主張する意見は、右派勢力を中心に大東亜戦争の思想背景でもある大東亜共栄圏の理念を揚げ、戦争は解放戦争だった、良い面もあったなどといった自国中心の見解を示す者が多いこと、またこのことから「大東亜戦争」の呼称を使用する事が「戦争賛美」、「復古的国粋主義を煽る」、「中韓を初めとしたアジア諸国への侵略に対する反省が乏しい」ことを表しているとして、使用に反対する意見も根強い。これらの意見を主張している人々は左翼・親中韓派が主であり、保守・右翼はこうした主張を自虐史観と非難している。

なお、旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は(中華民国やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張するべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した[7]

他の呼び方として、1931年の満州事変と1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、十五年戦争アジア・太平洋戦争と呼称することもある。しかし、満州事変に関しては塘沽協定(1933年)で停戦が成立しており、一続きの戦争とみなすことが妥当かについて賛否両論がある。庶民の日常感覚では、1937年以来が「戦争」であったことは、同時代の証言としては徳田秋声の『縮図』の冒頭部分の記述があり、戦後の証言としては安岡章太郎の回想がある。

また、イギリスの歴史家・ソーンは極東戦争(Far Eastern Conflict)という呼称を提唱している。なお、少数ながら主に民間で「8年戦争」という呼称が使用されている。


現在の日本政府による公式見解

現在の日本政府は、「大東亜戦争」の定義が1941年12月12日に当時の内閣によって閣議決定されたことを事実として確認している[8]が、同時に現在「大東亜戦争」という用語を政府の公文書では使用していないことを明らかにしている[9]。実際、現行法令の条文等には「大東亜戦争」という用語は使用されていない。 一方、「太平洋戦争」という用語については、「政府として定義したことはない」としている[8][9]が、現行法令の条文などにはこの用語が使用されている。

答弁書では「昭和二十年十二月十五日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文書においてお尋ねの呼称を使用しなくなった。」「公文書においていかなる用語を使用するかは文脈等にもよるもの」とされている[9]

なお、天皇が、この戦争について言及する際には「先の大戦」と表現することが通例となっている。


戦争の始まりと終わりについての諸説

日付はいずれも日本時間である。


始まり

1937年(昭和12年)7月7日 - 盧溝橋事件

北支事変勃発。


1937年8月13日 - 第二次上海事変

支那事変(日中戦争)勃発の日付についても、1937年7月7日の盧溝橋事件とする見方と、8月13日の第二次上海事変とする見方とがある。


1941年(昭和16年)12月8日 - マレー半島侵攻真珠湾攻撃、日本政府による対米英宣戦布告。

同日、開戦の詔書(米英両国ニ対スル宣戦ノ大詔)が発せられている。なお戦時中は12月8日を開戦記念日として、大詔奉戴日などと呼ばれていた。詔書は「聖戦の詔書」・「米国及ビ英国ニ対シ宣戦ニ際ニ下シ給ヘル詔書」ともいう。


終わり

1945年(昭和20年)8月14日 - 日本政府によるポツダム宣言受諾通告

終戦の詔書の日付も8月14日である。


1945年8月15日 - 玉音放送

1957年制定の引揚者給付金等支給法では1945年8月15日を終戦の基準としている。

1963年の閣議で全国戦没者追悼式を毎年8月15日に開催することが決定した。


1945年8月16日 - 日本軍への停戦命令

1945年9月2日 - 戦艦ミズーリ上での降伏文書調印

1952年(昭和27年)4月28日 - 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki