今日の大学の起源は、11世紀-12世紀頃、ヨーロッパ最古の大学としてイタリアに"Alma Mater Studiorum" (今のボローニャ大学)が1088年に開設され、1209年にイングランドのオックスフォード大学(同大学より1209年に分離してケンブリッジ大学が誕生)、フランスのパリ大学、スコットランドのグラスゴー大学と開設されていった。
中世ヨーロッパにおいては神学部(キリスト教聖職者の養成)、法学部(法律家の養成)、医学部(医師の養成)の3つの上級学部と哲学部との4学部からなり、専門職を養成することが大きな役割であった。
最初の中世ヨーロッパの大学は、学芸、法学、医学、神学の研究のために11世紀末から12世紀初めにかけてイタリアとフランスおよびイギリスで設立された。
12世紀から13世紀の間の社会の専門職化の増大に伴って、同様の要求が職業的聖職者に対しても増大した。12世紀以前には、ヨーロッパの知的生活は修道院に託されていた。修道院は、もっぱら典礼と祈りの研究に関わっており、少数の修道院が本当の知識人を誇ることができた。教会法と秘蹟の研究についてのグレゴリウス改革の重点化に従って、司教は、教会法に基づいて聖職者を養成するための、さらに説教と神学的議論で使うための論理学や論争、より効果的に財務を管理するための会計学をふくむ教会運営のより世俗的側面においても聖職者を養成するための大聖堂附属の学校 (cathedral schools) を組織した。
学習は、教会のヒエラルキー内での昇進に不可欠になり、同じように教師は名声を集めた。しかしながら、需要はすぐに、本質的に一人の教師によって運営されていた大聖堂附属学校の容量を越えた。なお、そのうえ、大聖堂附属学校の学生とより小さい町の市民との間で緊張が高まり、大聖堂附属学校はパリやボローニャのような大都市へ移転した。
近代的大学の前身は、そのルーツをパリに見ることができるという見解もある。市民と学生の間の緊張と教会による知識人の指導の検閲に不満だった、アベラールとその他の人は、中世のギルドに擬せられる、大規模で自律で永続的な高等教育機関である Universitas(統合体) を組織した。
13世紀に、教会における最高位の職務の約半数が修士学位所持者によって占められ(大修道院長、大司教、枢機卿)、次に高位の職務の三分の一以上が修士によって占められていた。加えて、中世最盛期の何人かの偉大な神学者、トマス・アクィナス、ロバート・グローステステは、中世の大学の産物である。中世の大学の発展は、ビザンツやユダヤの学者からのアリストテレスの広くいきわたった再導入や、アリストテレス主義の思想を支持してのプラトン主義や新プラトン主義の人気の衰えと符合する。
中世の大学は、キャンパスを持たなかった。授業は教会や家のように場所が使える所ならどこでも行われ、大学は物理的な場所ではなく、"universitas"(教師のギルドと学生のギルドが1つにまとまった組合団体の意)として互いに結び付けられた諸個人の集まりだった。この呼称で知られる高等教育機関としての大学は、まさに中世のイタリアから始まったものであり、それ以外の世界各地にあったという古代の教育機関とは直接の派生的な関係はない。
大学は一般に、教師に給料を支払う者に依存する2つのタイプに従って構成されていた。第一のタイプはボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので教師は、教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した――事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。従って、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。
大学の研究は学士号のために6年かかり、修士号や博士号のためにはさらに12年に及んだ。最初の6年は、自由七科(算術、幾何、天文、楽理、文法、論理、修辞)を研究する哲学部(faculty of the arts)に学んだ。当時ポピュラーな教授法だったスコラ学との緊密な結びつきがあるために、最も重視されたのは論理学だった。
ひとたび学士(Bachelor of Arts)を取得すると、学生は修士や博士となるべく三つの学部―法学部、医学部、神学部―から1つを選ぶ。神学は学問のうち最も名望のある領域で、かつ最も難しい領域だった。
課程は主題やテーマによってではなく書物に従って設けられる。例えば、ある課程はアリストテレスの書物あるいは聖書からの書物に基づいてあるかもしれない。課程は選択ではなく、課程の設置は固定され、全員が同じ課程をとらなければならなかった。しかし、どの教師が使用するかにしたがって臨時の選択があった。
学生は大学に14、5歳の時に入った。授業は、午前5時か6時の開始が普通であった。
学生は聖職者と同様の法的保護を与えられた。この仕方で、だれも学生に肉体的な危害を与えることを許されず、学生は教会裁判所において犯罪のために審問されるのみであり、従っていかなる身体刑からも免れていた。このことは学生に都市環境においてとがめなく世俗法を犯す自由を与えた。実際、多くの乱用がなされ、盗み、強姦、殺人は、ゆゆしい結果を直視しない学生の間では珍しくはなかった。このことは世俗的権威とともに不安な緊張へと導いた。学生は時々都市を去り何年も戻らないことによって「ストライキ」した。これは、(学生によって始められた)暴動が多数の学生を死に至らしめた後、1229年のパリ大学ストライキにおいて起こった。学生はストライキしつづけ、二年間戻らなかった。
以上のように学生は法律上聖職者的な地位をもつため、女性が大学に入学することは許可されなかった(女性は法によって聖職者になることを禁じられていた)。
大学の研究のためのポピュラーな教科書は、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』といわれる。神学生や修士はカリキュラムの一部としてこの教科書について広範な注釈をかくことを要求された。哲学と神学における中世思想の多くは、スコラ的な文献注釈に見出される。なぜならスコラ学は非常にポピュラーな教育法だったからである。
ヨーロッパにおける国際的な卓越性をもつどの大学も神聖ローマ帝国によって「ストゥディウム・ゲネラーレ」(Studium Generale)として登録された。この施設の構成員は、異なったストゥディウム・ゲネラーレにおける講義課程をしばしば与えるので、ヨーロッパ中にかれらの知識を広めるよう奨励された。