大仙陵古墳
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墳形・周濠

墳丘は3段からなっている。測量図では、前方部の一部は綺麗な三段になっているが、墳丘の大半の等高線に大きな乱れが観察され、地震などによる大規模な崩壊もしくは人為的破壊、あるいは未完成であったことが推測されている。 後円部の頂上部分は崩壊がひどいが、もとは直径60?70mの円形であったようである。

被葬者が葬られた後円部と前方部とが繋がるくびれ部には両側に突出した造出し(つくりだし)がある。この造出しの役割は、まだ解明されていない。

江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠はもとは三重であったと考えられる。現在の三重目の濠は埋没部分を1896年(明治29年)に掘り直し、復元されたものである(『堺市史続編』)。この三重目の濠は、大古墳の周りに配置された陪塚(ばいづか)の円墳に3カ所で突き当たりそれらを迂回している。内濠(一重目)の幅は約70m、くびれ部では最も広く東側で115m、西側で120mある。この内濠を囲むのが内堤である。ここに約30cmの円筒埴輪の埋没が各所で確認されている。外濠(二重目)を囲んで外堤が造られていた。三重目の濠があるがその外側に堤がないのが不自然である。また、内側の外堤部も元々は一部が切れていたが、これも1896年の工事で補修され、現在の形になった。(その名残で、今でも航空写真で後円部を上、前方部を下と見立てた際に左側の外堤が細くなっている)


外表施設

墳丘には葺石(ふきいし)と埴輪が存在している。とくに三重目濠から出土した巫女形埴輪の頭部はよく紹介されている。また、造出し近辺で宮内庁職員が須恵器の大甕を採集しており、本来は造出し上に置かれていたものである可能性が高い。埴輪のなかには武人・馬などが多いが、なかには円筒形をしたものがあり、これは結界を張ってなかに人を入らせないようにしていたと考えられる。


埋葬施設

後円部に存在する埋葬施設は江戸時代には露呈しており、既に盗掘されているようである。江戸時代の宝暦7年(1757年)には、後円部の埋葬施設には長持型石棺が認められている。

前方部正面の中段にも竪穴式石室が築造されている。明治5年(1872年)には、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し、埋葬施設が露出している。その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されているが、この時の記録は関東大震災で焼失してしまっている。残された絵図面によれば、その埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6?3.9メートル、南北に幅2.4メートル。周りの壁は丸石(河原石)を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている。その中に組合せの長持形石棺が納められ、下半分は埋もれたままである。


副葬品

後円部埋葬施設の副葬品は知られていないが、前方部の石室は明治5年の発掘調査のさいに、石棺の東側に「甲冑并硝子坏太刀金具ノ破裂等」が、石棺の北東に「金具存セザル鉄刀二十口斗」が発見されている。

甲冑は、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲で、冑には鋲留めにされた金銅製の小札(こざね)と鉢の胴巻きに円形の垂れ飾りを下げ、眉庇に透かし彫りが施された豪華なもの。甲(よろい)は金銅製の横矧板(よこはぎいた)が鋲留めにされている。また、右の前胴が開閉するように脇に二個の蝶番を付けられており、これらのこれらの組合せは、当時の流行をあらわしたものである。

鉄刀二十口は、把(つか)や鞘には金属製の装具のない簡略な外装の刀、ガラス杯は、緑系のガラス壺と白ガラスの皿がセットになった品であったという。

なお、この調査では石棺の開封調査は行われていない。


ボストンの仁徳陵出土品

アメリカボストン美術館に仁徳天皇陵出土と伝える鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、明治41年(1908年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。

鏡は細線式獣帯鏡で、青龍白虎玄武朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。

は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把(にぎり、柄)と環頭(柄尻)が残っている。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は南朝鮮の新羅任那古墳から出土している。

中国や韓国からの出土品が間違えられたという可能性がある一方で、鏡も刀も仁徳陵出土品としてもおかしくはなく、明治5年に露呈した前方部埋葬施設から持ち出され、一時期古墳近くの在家の所蔵物になっていた可能性が大きい。また、それ以前持ち出されたものとも考えられている。


陪塚

陪塚は「ばいづか」と読み、陪冢(ばいちょう)ともいう。陪塚は中型や小型合わせて15基あり、前方後円墳一基、帆立貝式古墳はその可能性も含めて五基、大きな円墳二基、円墳または方墳など小さな古墳七基、合わせて15基が陪塚的な位置にある。

西側から狐山、竜佐山(帆立貝式古墳)、孫太夫(帆立貝式古墳)、収塚(帆立貝式古墳推定)で、これら4古墳は大山古墳と同時期に築造された。前方部の南西端を北上すると直ぐ銅亀山(方墳か)、さらに北上し後円部の北方に丸保(防)山古墳(帆立貝式古墳)とその北に永山古墳(前方後円墳)があり、ともに周濠がある。丸保山古墳の南西にもう一基の帆立貝式古墳と南東に墳形不明の古墳がもう一基ある。後円部の長軸線上で外堤上に茶山古墳(直径約55m、円墳)、その東方で外堤上に大安寺山古墳(直径約60m、円墳)があり、陪塚に指定されているが、円墳では大規模な部類に入り検討すべき点が多いという。大安寺古墳の南東直ぐ近くに源衛門山古墳(直径約40m、円墳、周堀)がある。さらに三重目の濠に沿って南下すると塚周り古墳があり、また、南に円墳と方墳らしき古墳があったが、戦後の混乱期に復興のための土取工事で1950年頃に消滅した。


史料上の記述


「記紀」の記述

古事記では、オオササギ(仁徳天皇)は83歳で死去したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。日本書紀には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(399年)正月に死去し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。


延喜式

平安時代の法令集である延喜式には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地がほかの陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。


堺鏡

『堺鏡』(1684年)には豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていた。そのため、尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化がたびたび行われている。貞享2年(1685年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年)で後円部墳頂に柵を設置、享保の修陵時(1722年)には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置、嘉永6年(1853年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更、元治元年(1864年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki