大仙陵古墳
■毎日更新無料動画!
■未公開流出画像満載

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


ボストンの仁徳陵出土品

アメリカボストン美術館に仁徳天皇陵出土と伝える鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、明治41年(1908年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。

鏡は細線式獣帯鏡で、青龍白虎玄武朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。

は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把(にぎり、柄)と環頭(柄尻)が残っている。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は南朝鮮の新羅任那古墳から出土している。

中国や韓国からの出土品が間違えられたという可能性がある一方で、鏡も刀も仁徳陵出土品としてもおかしくはなく、明治5年に露呈した前方部埋葬施設から持ち出され、一時期古墳近くの在家の所蔵物になっていた可能性が大きい。また、それ以前持ち出されたものとも考えられている。


陪塚

陪塚は「ばいづか」と読み、陪冢(ばいちょう)ともいう。陪塚は中型や小型合わせて15基あり、前方後円墳一基、帆立貝式古墳はその可能性も含めて五基、大きな円墳二基、円墳または方墳など小さな古墳七基、合わせて15基が陪塚的な位置にある。

西側から狐山、竜佐山(帆立貝式古墳)、孫太夫(帆立貝式古墳)、収塚(帆立貝式古墳推定)で、これら4古墳は大山古墳と同時期に築造された。前方部の南西端を北上すると直ぐ銅亀山(方墳か)、さらに北上し後円部の北方に丸保(防)山古墳(帆立貝式古墳)とその北に永山古墳(前方後円墳)があり、ともに周濠がある。丸保山古墳の南西にもう一基の帆立貝式古墳と南東に墳形不明の古墳がもう一基ある。後円部の長軸線上で外堤上に茶山古墳(直径約55m、円墳)、その東方で外堤上に大安寺山古墳(直径約60m、円墳)があり、陪塚に指定されているが、円墳では大規模な部類に入り検討すべき点が多いという。大安寺古墳の南東直ぐ近くに源衛門山古墳(直径約40m、円墳、周堀)がある。さらに三重目の濠に沿って南下すると塚周り古墳があり、また、南に円墳と方墳らしき古墳があったが、戦後の混乱期に復興のための土取工事で1950年頃に消滅した。


史料上の記述


「記紀」の記述

古事記では、オオササギ(仁徳天皇)は83歳で死去したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。日本書紀には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(399年)正月に死去し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。


延喜式

平安時代の法令集である延喜式には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地がほかの陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。


堺鏡

『堺鏡』(1684年)には豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていた。そのため、尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化がたびたび行われている。貞享2年(1685年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年)で後円部墳頂に柵を設置、享保の修陵時(1722年)には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置、嘉永6年(1853年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更、元治元年(1864年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。翌、元治2年には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き古墳に自由に出入りすることが可能であったという。


明治時代

明治5年(1872年)の前方部斜面の崩壊による埋葬施設が露出を受けて、県令税所(さいしょ)篤等による緊急発掘が行われた。この時の調査は、古川躬行(堺の菅原神社の神官・国語学者)の執筆、柏木政規(諸陵寮の役人)の作図による『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』とその添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図としてまとめられた。ただし、この記録から発掘の過程や程度などの細部をうかがい知ることはできない。


名称の変遷と混乱

大仙陵古墳あるいは大仙古墳という名称は近畿地方、中でも地元大阪では知名度が低く、仁徳天皇陵、若しくは仁徳陵のほうが広く認知されている。 仁徳天皇陵の名称は明治以前につけられた名称であるが、仁徳天皇の墓かどうか明確な証拠がなく、1971年以降「仁徳陵」の名称で呼ぶことが提唱された。 更に1976年以降、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙古墳」あるいは「大仙陵古墳」の使用が始まった。

しかし宮内庁では仁徳天皇の墓と見なされており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている。また国民的にも国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である。 現在は混乱を避けるため「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」や「仁徳陵古墳(大仙陵古墳)」などのように併記することが一般的になりつつある。


現状

歴史の教科書に「世界最大級の墳墓」として掲載され、宮内庁管理のため陵域内への自由な出入りはできないが、堺市の主要な観光地となっている。最も墳丘に近づけるのは正面の拝所で、二重濠の外側堰堤まで立ち入ることができる。2000年には特別参拝として二重濠の内側堰堤まで立ち入りが許されたことがある。しかし、濠に棲むナマズや鯉をねらった釣り人のゴムボートによる無断立ち入りが昔から後を断たず、警備上の問題点とされている。三重濠に沿って周遊路があり(1周約2,750m)、陵域を一周することもできるが、余りにも巨大な墳丘のため、どこから見ても山にしか見えない。

考古学的には仁徳天皇の陵であることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀中頃?後半との見方が確定することによって、文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。

堺市の地区名や町名には、陵西・陵南・向陵(北東)など、この古墳からの方角にちなんで付けられたものがあり、市民は親しみをこめて「御陵」(ごりょう)、もしくは「御陵さん」などと呼んでいる。堺市内には、他にも2つの天皇陵(履中天皇陵・反正天皇陵)があるが、単に「御陵」と言った場合は仁徳天皇陵を指す。堺市役所高層館21階の展望ロビー ⇒[1]からは、巨大な前方後円墳の全容を遠望することができる。



話題の着エロボイス!
今なら無料ダウンロード♪

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki