1949年に杉下茂が背番号20番を背負って以来、ドラゴンズを代表する投手や、期待される投手に背番号20番が与えられてきた。このことから背番号20は「ドラゴンズのエースナンバー」と呼ばれている。杉下以降に20番を付けた投手は、以下のとおりである。
杉下茂(1949年 - 1960年)
権藤博(1961年 - 1969年)
渡部司(1970年)
星野仙一(1971年 - 1982年)
小松辰雄(1984年 - 1994年)
宣銅烈(1996年 - 1999年)
川崎憲次郎(2001年 - 2004年)
中田賢一(2005年 -)
ただし、落合監督は「エースナンバーは18」が持論であり、そのため、希望獲得枠ではなくドラフト2巡目入団の中田賢一に「空いていた背番号」として20を与えている。(ちなみに、1巡目の樋口龍美に21、5巡目の鈴木義広に23を与えた)。この時『20番はエースナンバーじゃないんですか?』という記者の質問に、落合監督は『20がエースナンバーだって言うんなら、杉下さんで永久欠番にすりゃよかったんだ(笑)』と答えた。
1942年5月24日に行われた大洋対名古屋5回戦(後楽園球場)の試合は、大洋の先発投手・野口二郎、名古屋の先発は西沢道夫で始まった。9回を終えて4対4の同点で延長へ。当時は戦時下による突貫主義が野球にも影響を与えており、引き分けの条件は日没のみ。9回以降は両軍とも0点が続き、延長28回を終わった時点で日没コールドが宣言され試合は終了した。先発両投手が最後まで投げきり、野口が投球数344球、西沢は311球で完投した。試合時間は3時間47分。プロ野球の延長記録では世界最長となった。
但し3Aも入れて見ると世界最長は1981年4月18日にポータケットで記録された、延長33回、8時間25分である。この時は日付変わって午前4時7分、延長32回サスペンデッドゲームが宣告され、同年6月23日に再開(サヨナラヒットにより1イニングで決着)されている。(史上2位はアメリカメジャーリーグの延長26回=1920年5月1日のブルックリン・ドジャースvsアトランタ・ブレーブス)。
当時のスコアテーブル
チーム12345678910111213141516171819202122232425262728合計
名古屋軍01100000200000000000000000004
大洋軍00000220000000000000000000004
中日ドラゴンズは1948年に自前の球場ナゴヤ球場(※1948年 - 1975年までは中日スタヂアム)を完成させナゴヤドームに本拠地を移す前年の1996年まで本拠地として使用していたが本拠地球場がらみの災難をナゴヤ球場時代に2度経験している。1つ目は球場を火事で焼失。2つ目は球場の運営会社倒産の影響で本拠地消失の危機に陥ったことである。
前者は1951年の出来事である。初代の中日スタヂアムは木造作りだったが故にタバコの不始末によるボヤ騒ぎがしょっちゅうでセントラル・リーグ発足以降は連盟から改善命令を受けていた。その年の8月の対巨人戦の3回表頃にバックネット裏から出火、あっという間に燃え広がり全焼してしまった。おかげでチームは残りの主催試合を静岡県や神奈川県で行う羽目に。しかしこの火災直後に鉄筋コンクリート作りで再建が開始され、翌1952年には完成して支障を来たさずに済んでいる。(なお、1959年に発生した伊勢湾台風の時も、球場が水没したため一部の主催試合の会場を変更した事例がある)
後者は1973年 - 1974年の出来事。中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社(株)中日スタヂアムが運営していたが1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見されたことにより倒産にいたっていたことが発覚(※ 倒産後同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件が発生したがこれは中日スタヂアム事件を参照されたい)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と地元の中継権を持つ中部日本放送・東海テレビ放送・東海ラジオ放送、地元名古屋市の財界の雄トヨタ自動車(当時はトヨタ自動車工業)や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資して新たな運営会社、(株)ナゴヤ球場が設立され中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営していくのである。
変則ダブルヘッダー
戦前・並びに戦後初期は変則ダブルヘッダー(異なる組み合わせの試合を同じ会場で施行する)のケースが頻繁に行われたが、1952年にプロ野球地域保護権(フランチャイズ=ホームタウン)が制定されてからも、1960年代初めまで関東地方に籍を置くチームの多くは後楽園球場を使用していたため、変則ダブルは当たり前だった。
その後変則ダブルは皆無に等しくなるが、1971年10月11日に川崎球場で行われたダブルヘッダーは中日がビジター(アウェー)で、ホームチームが入れ替わるというものだった。