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山田・落合監督時代

2002年谷繁元信が横浜からFA移籍。外野手にコンバートされた福留が、松井の三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。チームは巨人戦9連敗が響き3位。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。

2003年まで山田監督が指揮を執る。この年の7月5日東京ドームでの巨人戦において立浪和義が2000本安打達成。また、この年は一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスに入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。山田監督下の成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者)だったことや、山田自身の生真面目な性格から周囲との軋轢があったといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガース相手に善戦していたにも関わらず休養させられたことがファンの物議を醸した。この年は朝倉健太川上憲伸がケガで離脱し、ローテーションを守ったのは山本昌一人だった。また4番打者が流動的(主に立浪、アレックス)で固定出来ず、投手の好投を打線が見殺しにしてしまうケースが目立った。山田休養後は佐々木恭介ヘッドコーチが監督を代行。最終的に阪神には勝ち越し、完全優勝は阻止した。

2004年、1988年優勝時の4番打者である落合博満監督が就任。1987年以降の星野カラーを一新し、就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より控え選手も数多く起用し、守り勝つ「オレ竜野球」を見せた。日本シリーズでは、西武に3勝4敗で敗れ、50年ぶり2度目の日本一は果たせなかった。10月30日に名古屋市内で行われた優勝パレードでは16万人を動員した。

2005年、横浜よりタイロン・ウッズが加入。ドラフトでは石井裕也をはじめ即戦力となりうる新人を確保。球団初の開幕2試合連続サヨナラ勝ちなど交流戦前は好調。しかしこの年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には10ゲーム差の2位に終わった。

2006年3月、東京遠征時の宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルから近隣のホテルニューオータニへ変更することが決定した。ライバルの阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは東京ドームでの巨人戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、両チームの選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという好ましくない事態がしばしば起きていたということと、これまでのヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に加え、交流戦でロッテとも戦うため千葉への遠征が多くなり、千葉・幕張のニューオータニと併用して契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあるからとされている。

2006年ペナントレースでは、投手陣と堅い守り、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で、6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速マジックナンバー(M40)を点灯させた。シーズン終盤には阪神タイガースの猛追に遭うものの一度も首位を明け渡すことなく、2006年10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。セ・リーグ5球団に勝ち越しての、いわゆる「完全優勝」であった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦したが、1勝4敗で敗退。52年ぶりの日本一はならなかった。
2007年11月11日のアジアシリーズ決勝戦で優勝直後におこなわれた落合監督の胴上げ(東京ドーム)

2007年のペナントレースは、常に上位をキープし、終盤には巨人、阪神との三つどもえの展開となったが、最後は巨人にかわされ、2位が決定、連覇はならなかった。落合監督が決意を込めて頭髪を丸刈りにして臨んだクライマックスシリーズでは、第1、第2ステージで5勝無敗で、セリーグとして初のクライマックスシリーズを制し、2年連続の日本シリーズ出場を一気に決めた。前年と同様、日本シリーズで北海道日本ハムファイターズと対戦し、4勝1敗で53年ぶりの日本一に輝いた。また、ナゴヤドームでの胴上げは初めてで、名古屋での胴上げも53年振りであった(前回の日本一の時は中日球場)。パ・リーグでは以前も2004年及び2005年の日本シリーズでレギュラーシーズン終了時2位チームが日本シリーズを制覇しているが、当時はプレーオフでリーグ優勝を決め順位を入れ替えるという制度だったため、中日が2007年に達成した「リーグ優勝せずに日本シリーズを制した」というのはプロ野球史上初のことである。日本代表として出場したアジアシリーズでは初戦、韓国代表のSKワイバーンズに日本代表として初となる敗北を喫するも、2位として決勝戦に進出、1位のSKワイバーンズに勝利し優勝、アジア王者となった。



チーム成績・記録1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す

リーグ優勝(1954年、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年、2006年)・7回

日本一(1954年、2007年)・2回

アジアチャンピオン(2007年)・1回

Aクラス(1938年秋、1943年、1947年、1950年?1959年、1961年?1963年、1965年?1967年、1971年?1975年、1977年、1979年、1982年、1984年、1987年?1989年、1991年、1993年?1994年、1996年、1998年?2000年、2002年?2007年)

Bクラス(1937年春?1938年春、1939年?1942年、1944年、1946年、1948年?1949年、1960年、1964年、1968年?1970年、1976年、1978年、1980年?1981年、1983年、1985年?1986年、1990年、1992年、1995年、1997年、2001年)

最多勝 89勝(1950年)

最多敗 83敗(1948年、1964年)

最多引分 19分(1982年)

最高勝率 .683(1954年)

最低勝率 .283(1937年秋)

最小ゲーム差 1.0ゲーム(1961年、1994年)

最大ゲーム差 34.5ゲーム(1948年)

最多本塁打 191本(1984年)

最少本塁打 1本(1937年春)

最高打率 .282(1984年)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki