「東京都内」「都内」という場合には多摩地方や島嶼も含めて東京都全域を指すが、特別区に対して、多摩地域を「都下」と呼称する場合もある。同義で使用される「県内」「県下」とは異なる。この差異は、かつて「東京市内」「東京府下」とされた呼称が、1943年7月の東京市・東京府の合併による東京都発足の際にそのまま「東京23区内」「東京都下」に呼び変えられたことで起こったもので、慣習的な表現である。現在は、俗称の「都下」という表現が使われる機会は減少している。
多摩地域に加えて、神奈川県の国道246号沿線(川崎市北部地域{多摩区、麻生区、宮前区、高津区}横浜市青葉区、緑区、都筑区)や相模原市、埼玉県のうち旧入間県(所沢市、狭山市、入間市、川越市などの南西部)は、電気・電子機械製造業の工場・開発拠点、大学などの教育研究機関が集積しているため、旧通商産業省関東通商産業局は、この一帯を総称して「広域多摩地域」と名付けた。また、TAMA産業活性化協議会は、この広域多摩地域の総称を、「Technology Advanced Metropolitan Area」(技術先進首都圏地域)の頭文字を取って「TAMA」と名付けた。
現在の多摩地域は、令制国の武蔵国多摩郡に相当する。この多摩郡には、武蔵国の中枢機関に当たる国府(現在の府中市)と国分寺(国分寺市)、一宮(多摩市)が置かれた。なお、武蔵国は、現在の東京都全域および埼玉県全域と神奈川県東北部を含む広い版図だった。
この地域にはかなり古い時代から渡来人が住んでいたと考えられており、亀塚古墳のある狛江郷(狛江市)は高句麗に由来するとされる。この他にも渡来人に纏わる伝承は多い。武蔵野台地の開発は渡来人の潅漑技術による所が大きいとされる[要出典]。
延喜式神名帳には、足立郡に氷川神社(名神大社)、多摩郡に小野神社(一宮)、阿伎留神社、青渭神社、穴澤天神社、大麻止乃豆乃天神社等が見える。対して、後世に武蔵国総社とされた大國魂神社や、東京都区部の神社として著名な神田明神や日枝神社の名は見えない。
武蔵七党などの勢力の勃興を経て、14世紀には、武蔵府中で分倍河原の戦いが起こり、新田義貞が鎌倉幕府軍を破った。
戦国時代の多摩郡は、関東管領の上杉氏による支配を経て、江戸を本拠地とする太田氏や、小田原を本拠地とする後北条氏の地盤となった。北条氏政の弟・北条氏照は八王子城(八王子市)を築き、西方の甲斐国の武田氏に備えた。その後北条氏も、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅んだ。
江戸時代には、幕府直轄の天領となり、八王子宿には関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人が駐在することとなり、武田氏旧臣の大久保長安が代官頭を務めて、多摩地域の開発と、甲州街道や青梅街道の整備に当たった。また、江戸幕府は、国境警備のため、八王子宿周辺の農村に八王子千人同心を配した。このため、多摩地域は江戸幕府への忠誠が厚かった。近藤勇(現調布市)、土方歳三(現日野市)など、新選組主要隊士の出身地もこの地域である。
多摩郡内の旧幕府・旗本領は韮山県や品川県などに編入されたが、川越藩領との移管も含めて、各町村ごとの管轄の変遷は極めて錯綜している。1871年8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県後、同年12月(旧暦11月)に多摩郡は東京府と入間県に分割されたが、多摩郡内が横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるとの神奈川県知事・陸奥宗光の上申により、全域が神奈川県に移管された。ただし、東部の中野村ほか31村(現在の中野区・杉並区)は1872年9月に再び東京府へ移管された。1878年11月に施行された郡区町村編制法により、神奈川県管下の区域は3分割され西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡に、東京府管下の区域は東多摩郡となった。
この後、多摩3郡は1893年に東京府へ移管された。この理由は、帝都の水源である多摩川を東京府の管理下に置くためとされたが、当時の政府が日清戦争に備えての海軍力増強予算を帝国議会で成立させるためだったとも言われる[要出典]。