次の殷王朝(「商」とも呼ぶ)と異なり、文字資料を伴う考古学上の発見がなく、実在した確実な証拠は現在のところ発見されていない「伝説上の王朝」である。夏という名称も殷王朝が前王朝を「夏」と称していたに過ぎず、「夏」自身による自称は不明である(殷も周による呼称である)。
しかし、『史記』をはじめとする中国の史書では実在した歴史として記載されており、現代の中国史学会ではほぼ実在したものと見なされている。近年の考古学の実績からも、夏王朝が実在していた可能性は非常に高いものと見なされつつある。今世紀になってから炭素14年代測定法により、二里頭文化(河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡や河南省新密市の新砦遺跡)が夏の時代に相当する年代のものとほぼ確定するなど、考古学的な立証の期待も高まっている。
これに対して日本・欧米の学界は「可能性は高くなったが、実在と確定するにはまだ不足。」という実証的観点から慎重な立場をとっている。
以下は『史記』夏本紀による。
夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり??の孫である。彼は舜帝に命じられて、黄河の治水などの功績をなし大いに認められた。また人望の高かった禹を舜は後継者と考えていた。舜の死後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかったために禹が帝位に即位、陽城に都城を定めたとされる。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。
禹の死後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていないこともあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる。帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかったために討伐を加えている。
啓の死後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』によれば「国を失った」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。太康の五人の弟たちは「五子之歌」をつくった。
「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛?、作五子之歌」
? 「五子之歌」, 『史記』夏本紀より
この五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らないことを弟達が恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽にふけり朝政を省みなかったために国を追放されたのだと解釈されている(孔安国)。
太康の死後、弟の中康が後を継いだ。中康の時に諸侯の羲氏と和氏が淫楽にふけっていたので、胤(胤は名前とも、国の名前ともいう)に命じ羲氏と和氏を討伐している。
『史記』には、中康の後の帝達についての事跡は特に伝えられていない。
中康の11代後の孔甲は、性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬することを好み、人心は夏王朝から離れていったと記録され、夏朝の徳治にも翳りが出たとされている。
また桀は人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえつけたことで人心の離反を招いた。また商の湯を呼び出し夏台に投獄している。湯は後に赦されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、ついには桀を倒した。桀は鳴条に逃げたがで客死した。この桀に関する伝説は殷の紂のそれと酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。
商の湯王は帝位に即位すると夏の血を引く者を夏亭(史記正義によるとこの地)に封じた。周代においては、杞において諸侯に封じられている。
夏の帝の一覧
帝禹
啓 - 禹の子
太康 - 啓の子
中康 - 太康の弟
相 - 中康の子
少康 - 相の子
予 - 少康の子
槐 - 予の子
芒 - 槐の子
泄 - 芒の子
不降 - 泄の子
? - 不降の弟
? - ?の子
孔甲 - 不降の子、?の従兄弟
皐 - 孔甲の子
発 - 皐の子
桀 - 発の子
関連文献
『夏王朝 中国文明の原像』(岡村秀典、講談社学術文庫、2007年。ISBN 9784061598294)
関連項目
夏本紀
夏商周年表
夏商周年表プロジェクト
二里頭文化
二里岡文化
外部リンク
⇒二十五史 (簡体中国語/繁体中国語)
中国の歴史次の時代:殷
カテゴリ: 夏殷周
更新日時:2008年8月19日(火)07:24
取得日時:2008/08/27 14:32