壇ノ浦の合戦
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開戦

彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国河野水軍紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。

『平家物語』によれば、合戦前の軍議で軍監の梶原景時は合戦の先陣になることを望むが、義経は自らが先陣に立つとはねつけた。景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない」と義経を愚弄して斬りあい寸前の対立となり、これが後の景時の頼朝への讒言となり、義経の没落につながるとされる。

平氏軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿兵籐次秀遠300余艘、平氏一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。『平家物語』によれば知盛は通常は安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。壇ノ浦の戦い戦況推移図 ⇒拡大

3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による、『吾妻鏡』では午前)に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。

範頼軍は3万余騎(『源平盛衰記』)をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町三町も射かけたという。


平氏優勢

関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押しまくった。義経軍は干珠島、満珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

不利を悟った義経は敵船の水手・梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行った。漕ぎ手を失った平氏軍は身動きが取れなくなって狼狽、そこを義経軍が攻めかかり、武勇の坂東武者たちが敵船に乗り移って白兵戦となった。『平家物語』によれば、この時、阿波重能の水軍300艘が寝返ってしまった。阿波重能は平氏軍の唐船の計略を義経に告げて知盛の作戦は失敗してしまう。しかし、『吾妻鏡』によれば、阿波重能は合戦後の捕虜に含まれており、このような内応は実際はなかったようだ。


源氏の反攻と平氏滅亡

やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍を押しまくる。平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。

『平家物語』には平氏一門の最後の様子が描かれている。知盛は建礼門院二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。

武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛有盛行盛も入水している。

平家の総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまった。火の山公園から見た関門海峡

剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平氏随一の剛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がある。しかし、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。

知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟とともに入水した。

申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。


戦後壇ノ浦

入水した建礼門院は助け上げられ、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されたが、二位ノ尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、宝剣(天叢雲剣)も海に没した(別説あり、後述)。

安徳天皇の異母弟の守貞親王(安徳天皇の皇太子に擬されていた)は救出された。平氏一門のうち宗盛、清宗、それに平家と行動をともにしていた平時忠(二位ノ尼の弟)、平時実平信基藤原尹明といった廷臣、能円、全真、良弘忠快、行命といった僧侶、平盛国平盛澄源季貞らの武将、大納言典侍帥典侍、治部卿局らの女房が捕虜となっている。

義経は建礼門院と守貞親王それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼は九州に残って戦後の仕置きを行うことになった。義経はに凱旋し、後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官させた。これを知った頼朝は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じる。さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中の義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ、頼朝を怒らせた。

元暦2年(1185年)5月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌倉へ向かうが、腰越で止められてしまう。宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面する。義経は腰越状を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年6月に宗盛父子とともに京へ追い返されてしまう。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首された。

その後、義経が頼朝に許されることは無く、頼朝との対立が強まり、同年10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の宣旨を出させて挙兵するが失敗。逆に追討の宣旨を出されて没落して奥州藤原氏の元へ逃れるが、文治5年(1189年)閏4月に平泉で殺された。

合戦後ほどなく建礼門院は出家し大原に隠棲した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki