また、日本でも沖縄では、亀甲墓(かめこうばか、きっこうばか)や破風墓(はふばか、家型の墓)など、中国南部風の、本州と異なる墓も見られる。亀甲墓の形状について、「人は死んだらまた母親の胎内に戻っていくという趣旨で、その胎内をかたどったもの」という説明がよくされるが俗説である。欧米系の墓は墓所に詳しい。かつては北欧でもヴァイキングが船型墓を建てていた。
面積で世界最大とされるのは日本の仁徳天皇陵(大仙陵古墳、大阪府堺市)である。
墓を設けるのは人類共通の習慣ではなく、これを用いない民族・文化も多い。インドやインドネシア・バリ島のヒンドゥー教においては、遺体を火葬した後に遺灰と遺骨を川もしくは海に流し、またはガンジス川に遺体そのものを流して水葬にし、墓を設けない。また墓を設けることと、それに継続的に参拝することはイコールではない。日本でも、ヒンドゥー教のように遺灰を海や墓地公園のようなところで散骨するというやり方も最近では認められつつある。キリスト教徒もかつては教会内部に死者を納め最後の審判の後に復活することを待った。
インターネットの普及にともない、日本、中国などでは、本来の墓とは別に、ウェブサイト上に仮想的な墓をつくり、そこで墓参や記帳ができるようにするというネット墓というサービスが、専門業者、寺院により運営されている。
日本における墓制は、柳田国男の民俗学の研究が土台になってきた。柳田系民俗学は、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視したため、遺体を埋める埋め墓(葬地)とは別に、人の住む所から近い所に参り墓を建て(祭地)、死者の霊魂はそこで祭祀するという「両墓制」が、日本ではかつては一般的だった、としている。(葬地と石塔と隣接させるのが「単墓制」としている。) そのため、遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかったとしている。
しかし、このような墓制には批判が出てきている。岩田重則は、『「お墓」の誕生』(岩波新書)の中で、墓制を(1)遺体の処理形態(遺体か遺骨か)、(2)処理方法(埋葬か非埋葬か)、(3)二次的装置(石塔の建立、非建立)の3つの基準で分類している。(現在一般的な「お墓」は、「遺骨・非埋葬・石塔建立型」)。墓に石塔が出来てきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった(「遺体・埋葬・非建立」型)。また、浄土真宗地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかった(遺骨・埋葬/非埋葬・非建立型)。このように、柳田のいう「単墓制」「両墓制」というのは特に「遺体・埋葬・建立型」に限った議論において、葬地と祭地が空間的に隔たっていることの分類に過ぎず、日本全国の多様な墓制の歴史的変遷に対応させるには無理があるとの批判である。
なお、沖縄・南西諸島では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。風葬も参照のこと。(現在でも沖縄の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する。)宮古島、石垣島には、崖下墓があり、宮古島市島尻には3つの郭がある、石組み、グスクで囲った大きな墓(長墓)があり多数の白骨があるが祭祀が行われたかは不明である。最近科学のメスが入れられつつある。
戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などで墓を建てるケースも多かったが、戦後は、基本的に「○○霊園」などの名前が付いた、地方自治体による大規模な公園墓地以外は、お寺や教会が保有・管理しているものが多い。都市部では墓地用地の不足により、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式が登場している。代表的なマンション式では首都圏最大級規模の「浅草 正法寺墓苑 ⇒[1]」がある。なお、地方自治体や寺院などの霊園や地域の共同墓地に墓を立てる場合は、使用権(永代使用権)に基づく使用料(永代使用料)や管理費などの費用が掛かることがほとんどである。金額については、その設置者により異なる。
人によっては生前に自らの墓を購入することもある。これを寿陵(寿陵墓)、逆修墓という。また、自らの与り知らぬ所で付与される形式的な没後の名を厭い、自らの意思で受戒し、戒名を授かることもある。この場合、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別される。
現在の日本では、火葬後に遺骨を墓に収納する方式が主であるが、土葬も法律上は禁止されていない(一部地域の条例を除く)。詳しくは土葬を参照。