ラテン語では diaconus といい、初代教会において使徒らを「食事の世話」などの共同体の雑用から開放し宣教に専念させるために置かれた職位を継承するものとされる(使徒言行録六章)。カトリック教会は助祭、また正教会は輔祭をその継承職とする。監督制の聖公会と長老制の改革・長老教会では、共通の訳語を用いているだけといっていいほどその理解が異なる。会衆制の教会では、一部の専門職をのぞき全ての役員を執事と呼ぶ。
職制理解はカトリックの助祭に近しい。主教の聖職者按手によって職位が与えられる。聖餐式を執行することが出来ない。ただし、主教の許可があれば分餐を行なうことはできる。礼拝時の服装は司祭とよく似るが、ストラを左肩から斜めにかけているので、見分けが付く。
カルヴァンの提唱した教会の四職(牧師、神学教師、長老、執事)の一。教会会計、聖餐準備奉仕および互助・福祉などの分配を担当する。治会長老と同様に信徒職であり、教職位ではない。宗教改革の理解では、これは新設された職位ではなく、ローマの聖職階位制に変質してしまった初代教会の制度を聖書に基づき正しく復元したものとされる。
万人祭司主義のため、役員もあくまでも役職であり特別な職種ではない。そのため他の教派で言う監督や長老といった役職もひっくるめて教会に使える者。すなわち執事としている。ほとんどの教会では、教会員の選挙で決まり任期がある。
正教会ではギリシャ語でΔι?κονο?(ディアコノス)と呼ばれる職は輔祭に引き継がれた。聖職者ではない一般信徒で教会の運営に関わる役員は「執事」と呼ばれる。聖公会の執事は正教会の輔祭に相当し、他教派の教会役員が正教会の執事に相当するので、語義に注意が必要。
欧米の使用人。各国に似たような職はあるがイギリスのバトラー(butler)が特に有名である。日本でも明治以降、華族、資産家が導入した。
従者たちに指示する管理職として大きな力を振るった。
現代では王侯か、かなりの資産家の家に存在するのみである。
藤原氏一門の長である藤氏長者を兼ねていた摂関家の家政を掌握する政所家司の筆頭で執行家司(しぎょうけいし)の別名を持つ。諸流の公家の中でも有力な日野流あるいは勧修寺流の実力者が任命されて、摂関家領の管理などを行った。
院執事(いんのしつし)あるいは執事別当(しつしべっとう)と呼ばれ、院別当の筆頭。白河院の藤原国明・顕隆・基隆、鳥羽院の藤原公教、後白河院の藤原家明・隆季・兼雅らが知られる。後嵯峨院政の時代に院評定が積極的に開催されるようになると、評定衆の中心人物として院政の実務の責任者となり、大臣・公卿が任命される慣例となった。院政衰退後も幕末に至るまで置かれていた。
鎌倉幕府においては、政所や問注所に執事職が置かれていたが、室町幕府の成立後には代々足利氏の家宰を務めてきた高氏の高師直がそのまま将軍家の家政を預かって執事と呼ばれるようになった。だが、幕府という仕組みそのものが将軍家の家政機関としての側面を持っていたことから、恩賞や所務沙汰など重要な政務にも関与するようになった。だが、高師直はその後攻め滅ぼされ、以後は仁木氏や細川氏といった足利一族が執事に就任する。細川清氏が執事に任命された際に管領(かんれい)という別称が用いられるようになり、続いて斯波高経が後任となった際に自らは「管領」を名乗り、嫡男義将に「執事」の称号を名乗らせて共同で政務を執ったが、当然父である管領・高経が実権を持ち執事・義将はその補佐役に過ぎなかった。貞治6年(1367年)、細川頼之が足利義詮の遺言によって新将軍・義満の補佐・後見を任されると、管領として幕府の全権を掌握した。これ以後「管領」の呼称で統一されて執事は使われなくなった。また、幕府機関である政所・問注所の長も「執事」と呼称された。問注所は次第に形骸化していったが、政所では15世紀後半より財政再建などで実績を挙げた伊勢氏の事実上の世襲となった。
一方、鎌倉府においても関東公方(鎌倉公方)・関東執事が置かれ、高師冬・上杉憲顕・畠山国清・高師有が相次いで任じられる。その後、上杉憲顕が関東執事に復帰し、続いてその子能憲が後を継いで上杉氏による世襲が確立すると、幕府中央に倣って関東管領と呼ばれるようになった。なお、享徳の乱によって関東管領である上杉氏と対立した鎌倉公方(古河公方)足利成氏が幕府の追討を受けると、将軍足利義政の弟政知が新しい鎌倉公方として鎌倉に下った。