三崎には1913年に電灯が点灯したが、城ヶ島はその後もランプを使用していた。1928年1月25日、三崎町議会は城ヶ島電灯敷設工事負担金5000円のうち、2000円の町費補助を決定。これにより、三崎に遅れること15年にしてようやく城ヶ島に電灯が点灯した。同時に、アセチレンガスを光源としていた城ヶ島灯台の光度が2万燭光[20]から一気に12万燭光へ引き上げられた。
城ヶ島では1808年と1936年に大火が発生しているが、本稿では1936年2月2日に発生した大火について述べる。
1936年2月2日午前2時30分頃、城ヶ島の集落西端から出火した。出火当時、風速10メートルを越える西風が吹いており、炎は藁葺き屋根を伝って瞬く間に全集落に広がった。当時の三崎?城ヶ島間の交通は舟のみであったが、三崎から消火救援に漕ぎ出た船は波をかぶって転覆、警官や電灯会社員は泳いで島に辿り着いたという。また桟橋がなかったため、ガソリンポンプを運ぶ舟がポンプを降ろし終えた時には既に出火後30分以上が経過しており、手が付けられない状況であった。要塞施設も延焼の危険があったが、午前6時頃になってようやく鎮火。被害は全島119戸中、焼失106、半焼大破3、被災者591人というもので、文字通りの焦土と化した。 尚、三崎消防組小頭の藤井助次郎、筒先の石橋三郎の2名が放水中に3,300ボルトの電灯高圧線に触れて感電、殉職している。
被災者に対する支援として白米72俵の炊き出しが行われ、女学校生徒が交代で毎日手伝った。炊き出しは当初12日間の予定であったが、羅災家屋保険金の支払遅延のため8日間延長された。陸軍第1師団(師団長:堀丈夫中将)からも戦時備蓄食料の乾麺、携帯罐詰肉、醤油エキスが提供されている[21]。 また、分教場は民家から離れていたため延焼を免れたが、臨時休校した。この分教場は旧城ヶ島分校海の資料館として現存している。 当時、前述の『城ヶ島の雨』によって全国に名を知られていた城ヶ島の大火はショッキングな事件であったようで、東京日日新聞は「名勝城ヶ島の大火、全島廃墟と化す」と題した号外を発行して大きく報じている。
かつて、城ヶ島北岸東側には「水垂れ(みずったれ/みぞったれ)の黒松」と呼ばれる松が生えていた。樹高6m、幹回り1.5mの古木で、岩壁から海にせり出すように生えた雅やかな姿で「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」にも選ばれた。しかし、2002年10月1日に三浦半島を縦断した台風21号によって幹の中心から折れてしまい、その後樹勢は衰退してしまった。原因を調査したところ、松食い虫の被害にあっていることが判明、周辺の健康な松への感染を防ぐため、2005年6月に惜しまれながらも伐採された。内部は空洞になっており、蛇が2匹住み着いていたという。 樹齢は長らく不明とされていたが、伐採時に初めて樹齢230年前後であることが確認された。白秋記念館において防虫処理された根元部分が保存展示されている。
遊ヶ崎(城ヶ島大橋直下)にて弥生時代の遺跡が発見されており、この頃から人が住んでいたと考えられる。 奈良時代には薬師山に奈良東大寺の大仏建立に協力した行基によって開かれた神宮寺という寺があったと伝えられる。寺は既に存在しないが、三崎の見桃寺の本尊薬師如来像は元々この寺の本尊であったと言われる(『新編相模国風土記稿』)。本像は三浦市の重要文化財に指定されている。
864年には藤原資盈(藤原鎌足から11代目)が任地赴任中に三浦に漂着、船の楫(かじ)を取っていた家臣三郎に住居の場所を占わせ、島西端にある小山に鎮座したとされる。のちに三郎を祀った梶ノ三郎神社が建立され、以降、小山は楫の三郎山と呼ばれるようになったという。ちなみに、藤原資盈は三崎の海南神社の祭神として祀られている。
中世
1516年:北条早雲によって新井城、三崎城が落城し、三浦氏が滅亡。三浦氏の残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗(三崎十人衆)。
1556年:北条氏康、城ヶ島・三崎の海上で里見水軍と交戦。
1562年:里見水軍が城ヶ島に上陸、北条氏と交戦(三崎三浦海戦)。
1565年:北条氏康父子、桜見物のため三崎に来訪。城ヶ島に3日間滞在。
1570年頃:城ヶ島に三崎海南神社の分霊を歓請。
1573年:了善が常光寺を開山。
1590年:神宮寺焼失。豊臣秀吉天下統一、三浦郡は徳川氏直轄領となる(代官長谷川七左衛門)。
1594年:代官長谷川長綱、三浦郡全域の検地を行う。
1602年:神宮寺、城ヶ島より三崎に移り、高庵坊が神宮寺薬師堂を再建。
城ヶ島を含む三崎一帯は江戸幕府の直轄地(天領)となる。慶長年間に三崎御番所が置かれ、三崎代官(一時、三崎奉行)によって統治された(初代代官:長谷川長綱)。
1648年:三崎奉行設置。同奉行安部次郎兵衛が島東端の安房崎に烽火台を設置。
1649年:城ヶ島で海老網漁が始まる。
1676年:衣笠庄三崎郷が分割され、城ヶ島村となる。
1678年:烽火台を島西部に移設して灯明台を設置。
1681年:州の御前で雨乞いが行われる。
1696年:三崎奉行廃止、浦賀奉行所の所管下で再び三崎代官を設置、平岡三郎衛門が任官。
1721年:三崎代官河原清兵衛、灯明台を篝火に変更する。
1808年:城ヶ島の大火。浦賀奉行岩本正倫、砲台を設置。
1810年:幕府、会津藩主松平容衆に相模海防役を命じる。
1811年:会津藩、城ヶ島砲台を修理して遠見番所を併設。城ヶ島を含む三崎一帯の領主となる。
1812年:会津藩、安房ヶ崎にて大砲発射演習を行う。浦賀の加藤山寿が『三浦古尋録』を著す。
1821年:幕府、会津藩の相模海防役を解き、代わって川越藩が同役に就く。城ヶ島砲台は浦賀奉行の所管となる。
1841年:『新編相模国風土記稿』成立。
1854年:三崎の名主吉兵衛、城ヶ島沖に異国船2隻を発見、上宮田陣屋に報告。
1856年:遠見番所廃止。