かつて、城ヶ島北岸東側には「水垂れ(みずったれ/みぞったれ)の黒松」と呼ばれる松が生えていた。樹高6m、幹回り1.5mの古木で、岩壁から海にせり出すように生えた雅やかな姿で「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」にも選ばれた。しかし、2002年10月1日に三浦半島を縦断した台風21号によって幹の中心から折れてしまい、その後樹勢は衰退してしまった。原因を調査したところ、松食い虫の被害にあっていることが判明、周辺の健康な松への感染を防ぐため、2005年6月に惜しまれながらも伐採された。内部は空洞になっており、蛇が2匹住み着いていたという。 樹齢は長らく不明とされていたが、伐採時に初めて樹齢230年前後であることが確認された。白秋記念館において防虫処理された根元部分が保存展示されている。
遊ヶ崎(城ヶ島大橋直下)にて弥生時代の遺跡が発見されており、この頃から人が住んでいたと考えられる。 奈良時代には薬師山に奈良東大寺の大仏建立に協力した行基によって開かれた神宮寺という寺があったと伝えられる。寺は既に存在しないが、三崎の見桃寺の本尊薬師如来像は元々この寺の本尊であったと言われる(『新編相模国風土記稿』)。本像は三浦市の重要文化財に指定されている。
864年には藤原資盈(藤原鎌足から11代目)が任地赴任中に三浦に漂着、船の楫(かじ)を取っていた家臣三郎に住居の場所を占わせ、島西端にある小山に鎮座したとされる。のちに三郎を祀った梶ノ三郎神社が建立され、以降、小山は楫の三郎山と呼ばれるようになったという。ちなみに、藤原資盈は三崎の海南神社の祭神として祀られている。
中世
1516年:北条早雲によって新井城、三崎城が落城し、三浦氏が滅亡。三浦氏の残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗(三崎十人衆)。
1556年:北条氏康、城ヶ島・三崎の海上で里見水軍と交戦。
1562年:里見水軍が城ヶ島に上陸、北条氏と交戦(三崎三浦海戦)。
1565年:北条氏康父子、桜見物のため三崎に来訪。城ヶ島に3日間滞在。
1570年頃:城ヶ島に三崎海南神社の分霊を歓請。
1573年:了善が常光寺を開山。
1590年:神宮寺焼失。豊臣秀吉天下統一、三浦郡は徳川氏直轄領となる(代官長谷川七左衛門)。
1594年:代官長谷川長綱、三浦郡全域の検地を行う。
1602年:神宮寺、城ヶ島より三崎に移り、高庵坊が神宮寺薬師堂を再建。
城ヶ島を含む三崎一帯は江戸幕府の直轄地(天領)となる。慶長年間に三崎御番所が置かれ、三崎代官(一時、三崎奉行)によって統治された(初代代官:長谷川長綱)。
1648年:三崎奉行設置。同奉行安部次郎兵衛が島東端の安房崎に烽火台を設置。
1649年:城ヶ島で海老網漁が始まる。
1676年:衣笠庄三崎郷が分割され、城ヶ島村となる。
1678年:烽火台を島西部に移設して灯明台を設置。
1681年:州の御前で雨乞いが行われる。
1696年:三崎奉行廃止、浦賀奉行所の所管下で再び三崎代官を設置、平岡三郎衛門が任官。
1721年:三崎代官河原清兵衛、灯明台を篝火に変更する。
1808年:城ヶ島の大火。浦賀奉行岩本正倫、砲台を設置。
1810年:幕府、会津藩主松平容衆に相模海防役を命じる。
1811年:会津藩、城ヶ島砲台を修理して遠見番所を併設。城ヶ島を含む三崎一帯の領主となる。
1812年:会津藩、安房ヶ崎にて大砲発射演習を行う。浦賀の加藤山寿が『三浦古尋録』を著す。
1821年:幕府、会津藩の相模海防役を解き、代わって川越藩が同役に就く。城ヶ島砲台は浦賀奉行の所管となる。
1841年:『新編相模国風土記稿』成立。
1854年:三崎の名主吉兵衛、城ヶ島沖に異国船2隻を発見、上宮田陣屋に報告。
1856年:遠見番所廃止。
1867年:幕府によって灯台建設が計画される。
1868年:三崎一帯は韮山代官江川太郎左衛門の監督下に置かれる。
明治
1868年:城ヶ島を含む三浦は韮山県に属す。
1870年:城ヶ島灯台初点。
1871年:神宮寺跡、廃地となる。廃藩置県により神奈川県に属す。
1873年:城ヶ島学舎が常光寺に開校。
1875年:城ヶ島灯台、緑色光となる。城ヶ島村、三崎町に合併。
1877年:城ヶ島海南神社、宮ヶ崎から現地に移動。
1881年:城ヶ島学校新築。
1888年:城ヶ島学校、宮ヶ崎に新築。
1889年:町村制施行、城ヶ島は三崎町となる。初代町長は最後の城ヶ島村名主であった加藤泰次郎。
1894年:臨時東京湾守備隊司令部(後の東京湾要塞司令部)が設置され、三崎に監視哨を置く。
1898年:勅令第百七十六号「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」公布。要塞近傍における測量・模写・撮影には要塞司令官の許可が必要となる。
1899年:軍機保護法、要塞地帯法公布。城ヶ島を含む三浦半島全域が要塞地帯に指定。制限事項は漁業活動、土木・建築等に拡大。
1905年:海軍、城ヶ島に望楼設置。水難救済会、赤羽根に見張所設置。
1911年:城ヶ島学校、小網代学校と共に三崎学校に合併、分校となる。