(順不同)
題名公開年配給監督配役
城ヶ島の雨1950年(昭和25年)大映田中重雄長谷川一夫、日高澄子
城ヶ島の雨1959年(昭和34年)猪俣勝人山田真二、野口ふみえ
俳人松本たかしが初秋の島の夜を詠んだ俳句(昭和13年作)の詩碑が城ヶ島公園にある。戦前の城ヶ島は渡し舟以外に渡島手段がなく、要塞地帯ゆえに渡島自体に軍の制約があったため、夜ともなれば人気もなく、虫の音の鳴り響く島であった。詩碑に刻まれた俳句は、虫の音響く初秋の夜、涼を求めて雨戸も閉めずに寝入る島の情景を写し取ったものである。
俳人角川源義が城ヶ島から望む伊豆大島への憧れを詠んだ俳句(昭和39年作)の詩碑が城ヶ島公園にある。城ヶ島から望む伊豆大島へ帆掛け舟が奔る様子を詠ったものである。伊豆大島と城ヶ島の間には遮るものが何もないため、目と鼻の先に見える。1986年の大噴火の際は、夜になると空が真っ赤に染まる様を見ることができた。
城ヶ島から望む伊豆大島
城ヶ島には2つの灯台がある。東京湾の入口に位置するため歴史は古く、1648年(慶安元)に島東端の安房ヶ崎に設置された烽火台(のろし台)が起源とされる。
詳細は城ヶ島灯台を参照
島西端の長津呂崎の根元、標高約30m の崖上に建つ灯台。
江戸時代に現在地(西山)に設置された灯明台が直接のルーツである。これは前述の安房ヶ崎の烽火台を移設したもので、後に松明を焚く篝火(篝屋)に変更された。城ヶ島を描いた江戸期の絵画で姿を偲ぶことができる。幕末に西洋式灯台の建設が計画され、1870年(明治3)に初点灯した。日本の西洋式灯台では5番目で、最も古い時代に設置された灯台の1つ。当初の灯台は関東大震災で倒壊し、現在の灯台は1927年に再建された2代目である。戦前、城ヶ島付近で軍事演習が行われる際には明弧の制限も行われた。
島東端の安房ヶ崎にある灯台。標高数m の岩場に建つ。 烽火台が島西端に移動された後、安房ヶ崎には長らく灯台のない時代が続いた。しかし、当地周辺も遠浅の岩礁地帯であり、通航に危険を伴うことに違いがなかったため、地元の陳情を受けて1962年にようやく灯台が設置された。 塔体中央にくびれを持ち、灯台らしい姿の城ヶ島灯台とは大きく異なる印象を受ける。海面に近い岩場に建つため、常に波飛沫を受けている。
初点:1962年
構造:塔形(円形)コンクリート造
灯塔高:11.5 m
標高:13 m
光度:2,000 cd
光達距離:約19 km
灯質:単閃白光(4秒に1閃光)
管理:第三管区海上保安本部 城ヶ島航路標識事務所
安房埼灯台の日の出
鎌倉時代、三浦半島一帯は三浦氏の支配下にあり、城ヶ島はその水軍(三浦水軍)の本拠地であった。 戦国時代、三浦氏は一度は滅亡するも相模三浦氏として再興していたが、1516年に北条早雲によって新井城、三崎城が落城、滅亡した。この時、亀崎、鈴木、下里、三富、出口を名乗る者を中心とする残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗した。彼らは三崎の船を全て城ヶ島に持ち去ったため、責めあぐねた早雲は建長寺、円覚寺の両和尚に調停を頼んでようやく講和したという(『北条五代記』)。この残党は「三崎十人衆」と呼ばれ(『小田原衆所領役帳』)、北条氏の下で里見水軍の侵攻をよく防いだとされる。彼らの苗字は現在も三崎に残っている。 北条氏の支配下では、梶原景宗率いる北条水軍が房総半島の安房里見氏と対峙した。里見水軍はしばしば城ヶ島周辺を来襲していたが、1562年に城ヶ島に上陸すると、北条軍は三崎城に陣を構えて海戦となった(三崎三浦海戦)。現在、島にこれらの遺構は残っていないが、城ヶ島から三崎を望んだ際に見える高台が三崎城跡である[1]。
江戸時代末期に外国船が頻繁に訪れるようになると、東京湾(江戸湾)の入口に位置する城ヶ島は海防の要所として重要視されることとなった。1808年に浦賀奉行岩本正倫が砲台を築いたのを皮切りに、1810年に幕府より相模海防役を命じられた会津藩主松平容衆は、城ヶ島に遠見番所を設置したり、安房ヶ崎にて大砲発射演習を行うなどの活動を行った。1821年に会津藩に代わって川越藩が相模海防役に就くと、城ヶ島砲台は浦賀奉行の所管となった。米国ペリー艦隊は横須賀の浦賀に来航、久里浜に上陸したが、来訪を真っ先に知らせたのは松輪沖で漁をしていた城ヶ島の漁師であったと伝えられている。