城ヶ島

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戦後?県立城ヶ島公園

終戦後、城ヶ島砲台は米軍によって直ちに武装解除された。1950年、砲台跡地約17 ha が都市計画公園に指定、県立城ヶ島公園として1958年に設置された。一部は農地改革で民間に払い下げられ、現在は面積約14.6 ha の風致公園となっている。 砲塔の完全撤去と公園整備によって砲台当時の状況は不明瞭になっているが、現在の公園施設内に残る主な砲台施設跡は以下のようになっている。

砲台施設公園施設
西側砲塔跡城ヶ島公園駐車場入口前の円形花壇
東側砲塔跡城ヶ島公園正門トイレ周辺の緑地
観測所跡城ヶ島公園の展望台下部
掩体塹壕跡ウミウ展望台から城ヶ島灯台に至るハイキングコース中(通称:グライダー広場)

その他、一部の地下構造物・付帯設備跡も現存しているが公開されていない[14]。かつては城ヶ島大橋を渡りきった付近(現在の大駐車場)にも遺構が残っていたが、城ヶ島大橋建設時に撤去された。架橋後も駐車場から城ヶ島公園への道路に繋がる歩道脇に遺構らしき建造物が長らく残っていたが、これも近年撤去された。

要塞ゆえに砲台現役当時の写真は殆ど残されていない。終戦後から城ヶ島公園整備前の写真としては、国土地理院『国土変遷アーカイブ』 ⇒[3]にて終戦の数ヵ月後に米軍が撮影した空撮写真[15]が公開されている他、城ヶ島大橋竣工当時に神奈川県が発行した案内パンフレットにも城ヶ島公園正門駐車場が未整備の頃の空撮写真が掲載されており ⇒[4]、かろうじて砲台設置当時の周辺状況を窺い知ることは可能である。

園内にはスイセン、イソギク等が群生し、芝生の広場では弁当を広げる家族連れが多い。また、崖に付けられた階段から海岸に降りることもできる。 砲台当時は観測所であった展望台の眺望は素晴らしく、東西南3方向に壮大な眺めが広がる(下表)。

方角眺望
東房総半島(鋸山など)
西伊豆半島、富士山、箱根山丹沢山塊奥秩父山塊雲取山など)[16]南アルプス北岳などの白峰三山[17]
南伊豆大島、三宅島[18]
大楠山

尚、城ヶ島砲台に砲を提供した戦艦安芸は、展望台から見える房総半島の最南端、野島崎の沖合いに沈んでいる。


エピソード


頼朝の桜

源頼朝は、城ヶ島と三崎の宝蔵山に数千株という大量のを植え込み、両岸を桜に囲まれた瀬戸に船を浮かべて宴を催したと伝わる。 戦国時代には北条氏康親子が桜見物のために3日間滞在しており、城ヶ島の春は磯山に桜が咲き乱れる絶景であった様子が偲ばれる。

この桜は現存していない。江戸時代後期に編纂された『俳諧三崎志』に枯死を惜しむ節があり、この頃には既に失われていたようであるが、対岸の三崎に「花暮(はなぐれ)」という地名を残している。 花暮とは、三崎から眺めた城ヶ島の桜は、白波に桜が映って日が暮れるまで眺めても飽きないということに由来する(『三浦紀行』)。


流れ鯨

1656年、篝屋(城ヶ島灯台の項参照)の下で流れが捕獲された記録がある。三崎西浜の地蔵院にある「くじら塚」は、この鯨の供養のために建てられたと伝わる。


関東大震災と城ヶ島馬ノ背洞門

1923年9月1日に発生した関東地震は、小田原沖での発生直後に三浦半島直下でも発生したことが知られている ⇒[5]。地震発生時に三崎港は隆起によって干上がり、数日間は歩いて城ヶ島に渡ることができた。その後、海水は数日をかけて徐々に戻ってきたという。この現象は当時を知る人達によって口伝えられており、地元では知る人が多い。現在の三崎港を眺める限りは信じ難い現象であるが、『大正震災志』(内務省社会局編)に三崎の隆起が最大7.5mに達して徐々に沈降したことや、城ヶ島の東側海域でガスの噴出があったことが記録されている。地盤変動は三崎周辺を平均1.4mも隆起させて収束した。 大正時代までの三崎周辺には多くの海水浴場があり、城ヶ島にも遊ヶ崎海水浴場があった。しかし、地震による隆起で砂中の岩があちこちで露出した結果、旅館が足りずに海水浴客が民家の軒先を借りるほどの人出があった海水浴場としての賑わいは過去のものとなった[19]。 尚、三崎港の干上がり現象は、1703年12月31日(旧暦11月23日)の元禄大地震でも発生した。復旧費用は江戸幕府の援助のみでは足りず、旗印を掲げた船で沖を通る船から寄付を集めたとされる。


馬ノ背洞門

侵食によって岩がメガネ状に繰り抜かれたアーチ状の岩(海食洞門)で、赤羽根崎の突端にある。1923年以前は洞門下を小船で通航できたが、関東地震による隆起で陸化した。地震による隆起現象を今に伝える存在である。稀に上部を歩く観光客がいるが、幅が狭い上既に亀裂が入っており、崩落の可能性があるので危険である。


電灯

三崎には1913年に電灯が点灯したが、城ヶ島はその後もランプを使用していた。1928年1月25日、三崎町議会は城ヶ島電灯敷設工事負担金5000円のうち、2000円の町費補助を決定。これにより、三崎に遅れること15年にしてようやく城ヶ島に電灯が点灯した。同時に、アセチレンガスを光源としていた城ヶ島灯台の光度が2万燭光[20]から一気に12万燭光へ引き上げられた。


城ヶ島の大火

城ヶ島では1808年1936年に大火が発生しているが、本稿では1936年2月2日に発生した大火について述べる。

1936年2月2日午前2時30分頃、城ヶ島の集落西端から出火した。出火当時、風速10メートルを越える西風が吹いており、炎は藁葺き屋根を伝って瞬く間に全集落に広がった。当時の三崎?城ヶ島間の交通は舟のみであったが、三崎から消火救援に漕ぎ出た船は波をかぶって転覆、警官や電灯会社員は泳いで島に辿り着いたという。また桟橋がなかったため、ガソリンポンプを運ぶ舟がポンプを降ろし終えた時には既に出火後30分以上が経過しており、手が付けられない状況であった。要塞施設も延焼の危険があったが、午前6時頃になってようやく鎮火。被害は全島119戸中、焼失106、半焼大破3、被災者591人というもので、文字通りの焦土と化した。 尚、三崎消防組小頭の藤井助次郎、筒先の石橋三郎の2名が放水中に3,300ボルトの電灯高圧線に触れて感電、殉職している。

被災者に対する支援として白米72俵の炊き出しが行われ、女学校生徒が交代で毎日手伝った。炊き出しは当初12日間の予定であったが、羅災家屋保険金の支払遅延のため8日間延長された。陸軍第1師団(師団長:堀丈夫中将)からも戦時備蓄食料の乾麺、携帯罐詰肉、醤油エキスが提供されている[21]。 また、分教場は民家から離れていたため延焼を免れたが、臨時休校した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki