しかし、城ヶ島砲台は第2砲台の傾斜が徐々に進行するという、砲台としては致命的な欠陥を抱えていた。この問題は竣工8ヶ月後の1927年12月6日、第2砲台の傾斜が火砲履歴規則の「許シ得ヘキ限界」に近づきつつあるとして陸軍兵器本廠長より陸軍大臣に報告された。竣工後の報告にも関わらず「基礎鉄部据付後逐次傾斜しつつあり?」とあり、少なくとも実務レベルでは傾斜の進行を竣工前から認知していた節がある。これは1940年の報告で工事中の測定値が報告されていることでも裏付けられる。翌7日には築城部本部長より砲台の沈下量、付近の土地の移動量、対岸(三崎)に対する城ヶ島の沈下量を毎日測定する暫定処置を取ったことが報告されており、大騒ぎとなったことが窺える。傾斜はその後も増大し、1928年10月4日、傾斜量が遂に規定を超過したことが陸軍兵器本廠長によって報告された[10]。 その後も幾度となく状況が報告されたが、1940年3月の報告でも「操砲に支障なし」とされており、最後まで解決できなかったようである。この報告における原因考察では、「軟弱地盤に起因するならば観察可能なはずの諸現象(各部の傾斜角度から発生が推測されるコンクリートのひび割れ等)が見られないことから地耐力は充分であり、不等沈下を来すことは絶対にない」とした上で、主因については「関東地震による異常隆起の後、城ヶ島の局部的な沈降が徐々に進行、砲台周辺の土地もこれに伴って太平洋方向(南方向)に傾斜したと判断する他にない」と結論付けている[11]。 (関東地震による城ヶ島一帯の異常隆起については#エピソードの項を参照のこと。)
城ヶ島砲台の存在により、三崎の住民は城ヶ島を眺めていると官憲に注意されたという。元より要塞地帯であるため、小道1本作るにも軍の許可が必要であった[12]。 当然ながら、外国人の場合は更に厳しい処置が取られた。築造期間中、貝殻収集目的で城ヶ島に来訪したアメリカ人の大学講師は、城ヶ島からの渡し舟を下船後に乗合自動車乗り場で身柄を確保され、警察署にて取り調べと身体検査・所持品検査を受けた後に嫌疑不十分で釈放された。この時には米国人講師に宿を提供した島民も取り調べを受けており、本件の一部始終が神奈川県知事から内務大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣宛に報告されている[13]。
終戦後、城ヶ島砲台は米軍によって直ちに武装解除された。1950年、砲台跡地約17 ha が都市計画公園に指定、県立城ヶ島公園として1958年に設置された。一部は農地改革で民間に払い下げられ、現在は面積約14.6 ha の風致公園となっている。 砲塔の完全撤去と公園整備によって砲台当時の状況は不明瞭になっているが、現在の公園施設内に残る主な砲台施設跡は以下のようになっている。
砲台施設公園施設
西側砲塔跡城ヶ島公園駐車場入口前の円形花壇
東側砲塔跡城ヶ島公園正門トイレ周辺の緑地
観測所跡城ヶ島公園の展望台下部
掩体・塹壕跡ウミウ展望台から城ヶ島灯台に至るハイキングコース中(通称:グライダー広場)
その他、一部の地下構造物・付帯設備跡も現存しているが公開されていない[14]。かつては城ヶ島大橋を渡りきった付近(現在の大駐車場)にも遺構が残っていたが、城ヶ島大橋建設時に撤去された。架橋後も駐車場から城ヶ島公園への道路に繋がる歩道脇に遺構らしき建造物が長らく残っていたが、これも近年撤去された。
要塞ゆえに砲台現役当時の写真は殆ど残されていない。終戦後から城ヶ島公園整備前の写真としては、国土地理院『国土変遷アーカイブ』 ⇒[3]にて終戦の数ヵ月後に米軍が撮影した空撮写真[15]が公開されている他、城ヶ島大橋竣工当時に神奈川県が発行した案内パンフレットにも城ヶ島公園正門駐車場が未整備の頃の空撮写真が掲載されており ⇒[4]、かろうじて砲台設置当時の周辺状況を窺い知ることは可能である。
園内にはスイセン、イソギク等が群生し、芝生の広場では弁当を広げる家族連れが多い。また、崖に付けられた階段から海岸に降りることもできる。 砲台当時は観測所であった展望台の眺望は素晴らしく、東西南3方向に壮大な眺めが広がる(下表)。
方角眺望
東房総半島(鋸山など)
西伊豆半島、富士山、箱根山、丹沢山塊、奥秩父山塊(雲取山など)[16]、南アルプス(北岳などの白峰三山)[17]。
南伊豆大島、三宅島[18]
北大楠山
尚、城ヶ島砲台に砲を提供した戦艦安芸は、展望台から見える房総半島の最南端、野島崎の沖合いに沈んでいる。
源頼朝は、城ヶ島と三崎の宝蔵山に数千株という大量の桜を植え込み、両岸を桜に囲まれた瀬戸に船を浮かべて宴を催したと伝わる。 戦国時代には北条氏康親子が桜見物のために3日間滞在しており、城ヶ島の春は磯山に桜が咲き乱れる絶景であった様子が偲ばれる。
この桜は現存していない。江戸時代後期に編纂された『俳諧三崎志』に枯死を惜しむ節があり、この頃には既に失われていたようであるが、対岸の三崎に「花暮(はなぐれ)」という地名を残している。 花暮とは、三崎から眺めた城ヶ島の桜は、白波に桜が映って日が暮れるまで眺めても飽きないということに由来する(『三浦紀行』)。
1656年、篝屋(城ヶ島灯台の項参照)の下で流れ鯨が捕獲された記録がある。三崎西浜の地蔵院にある「くじら塚」は、この鯨の供養のために建てられたと伝わる。
1923年9月1日に発生した関東地震は、小田原沖での発生直後に三浦半島直下でも発生したことが知られている ⇒[5]。地震発生時に三崎港は隆起によって干上がり、数日間は歩いて城ヶ島に渡ることができた。その後、海水は数日をかけて徐々に戻ってきたという。この現象は当時を知る人達によって口伝えられており、地元では知る人が多い。現在の三崎港を眺める限りは信じ難い現象であるが、『大正震災志』(内務省社会局編)に三崎の隆起が最大7.5mに達して徐々に沈降したことや、城ヶ島の東側海域でガスの噴出があったことが記録されている。地盤変動は三崎周辺を平均1.4mも隆起させて収束した。 大正時代までの三崎周辺には多くの海水浴場があり、城ヶ島にも遊ヶ崎海水浴場があった。しかし、地震による隆起で砂中の岩があちこちで露出した結果、旅館が足りずに海水浴客が民家の軒先を借りるほどの人出があった海水浴場としての賑わいは過去のものとなった[19]。 尚、三崎港の干上がり現象は、1703年12月31日(旧暦11月23日)の元禄大地震でも発生した。