詩人北原白秋は、1910年に三崎を初訪、紆余曲折の後の1913年、城ヶ島遊ヶ崎対岸の三崎町向ヶ崎(むこうがさき)にあった異人館に翌年まで住んでいた。三崎居住期にも詩歌をノートに書き溜めており(三崎ノート)、その成果は1915年に歌集『雲母集(きらら集)』として発表している。
白秋は三浦三崎、そして城ヶ島を生涯愛した。1937年には三崎小学校、三崎実科高等女学校(後の県立三崎高等学校、2004年廃校)の校歌を作詞している。また、白秋が生前に歌碑建立を許したのは城ヶ島と三崎の見桃寺のみと言われる。 特に、1941年11月2日に行われた見桃寺の歌碑は、除幕式に白秋本人が参列した唯一のものである。
雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる
雨は眞珠か 夜明の霧か それともわたしの忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく 帆がかすむ
『城ヶ島の雨』歌碑『城ヶ島の雨』譜碑
『城ヶ島の雨』は、白秋が三崎滞在中の1913年に演出家島村抱月の依頼で作られた。島村は自身の主宰する芸術座の音楽会で発表するオリジナル曲のために白秋に作詞を依頼、作詞後すぐに梁田貞によって曲が付けられ、1913年10月30日、東京有楽座にて梁田自身の独唱(ピアノ:松平信博)で発表された。附曲された白秋の詩としては第一号である。城ヶ島や三崎の風情を詠っており、奥田良三が吹き込んだレコードが全国的にヒットすると、城ヶ島はロマンの島として全国に知られることとなり、憧れを抱いた若い男女が大勢来訪した。附曲した作曲家としては梁田の他に山田耕作(1923年)、橋本國彦(1928年)がいる。また、1950年と1959年には同名の映画も作られた。現在でも大正ロマンの名曲として親しまれている。
『城ヶ島の雨』の歌碑は白秋存命中より建立が望まれていたが、島が要塞地帯であったため、戦後の1949年になってようやく実現した。歌碑は城ヶ島北岸中央の遊ヶ崎に白秋が望んだ帆形の根府川石を用いて建立され、刻まれた草書は白秋の自筆である(歌碑裏側に「昭和16年7月 白秋先生揮毫」とある)。建立時、既に白秋は没していたが、除幕式には作曲者梁田貞が出席した。 その後、歌碑は城ヶ島大橋の建設に伴って西側に移動されて現在に至る。遊ヶ崎は城ヶ島大橋の真下となっているが、白秋碑苑として整備され、 ⇒白秋記念館が建つ。同記念館に備え付けられたノートには、遠方から来訪した人たちの書き込みもある。城ヶ島の趣は当時とは大きく変わったが、当時を知る人たちにはこの歌に強い思い入れを抱き続けている人が少なくないことを窺わせる。
歌った歌手の例
奥田良三
森繁久彌
美輪明宏
ダークダックス
倍賞千恵子
都はるみ
森進一
安田祥子
芹洋子
小柳ルミ子
米良美一
新垣勉
松本美和子
山本健二
(順不同)
題名公開年配給監督配役
城ヶ島の雨1950年(昭和25年)大映田中重雄長谷川一夫、日高澄子
城ヶ島の雨1959年(昭和34年)猪俣勝人山田真二、野口ふみえ
俳人松本たかしが初秋の島の夜を詠んだ俳句(昭和13年作)の詩碑が城ヶ島公園にある。戦前の城ヶ島は渡し舟以外に渡島手段がなく、要塞地帯ゆえに渡島自体に軍の制約があったため、夜ともなれば人気もなく、虫の音の鳴り響く島であった。詩碑に刻まれた俳句は、虫の音響く初秋の夜、涼を求めて雨戸も閉めずに寝入る島の情景を写し取ったものである。
俳人角川源義が城ヶ島から望む伊豆大島への憧れを詠んだ俳句(昭和39年作)の詩碑が城ヶ島公園にある。城ヶ島から望む伊豆大島へ帆掛け舟が奔る様子を詠ったものである。伊豆大島と城ヶ島の間には遮るものが何もないため、目と鼻の先に見える。1986年の大噴火の際は、夜になると空が真っ赤に染まる様を見ることができた。
城ヶ島から望む伊豆大島
城ヶ島には2つの灯台がある。東京湾の入口に位置するため歴史は古く、1648年(慶安元)に島東端の安房ヶ崎に設置された烽火台(のろし台)が起源とされる。
詳細は城ヶ島灯台を参照
島西端の長津呂崎の根元、標高約30m の崖上に建つ灯台。
江戸時代に現在地(西山)に設置された灯明台が直接のルーツである。これは前述の安房ヶ崎の烽火台を移設したもので、後に松明を焚く篝火(篝屋)に変更された。城ヶ島を描いた江戸期の絵画で姿を偲ぶことができる。幕末に西洋式灯台の建設が計画され、1870年(明治3)に初点灯した。日本の西洋式灯台では5番目で、最も古い時代に設置された灯台の1つ。当初の灯台は関東大震災で倒壊し、現在の灯台は1927年に再建された2代目である。戦前、城ヶ島付近で軍事演習が行われる際には明弧の制限も行われた。
島東端の安房ヶ崎にある灯台。標高数m の岩場に建つ。