鎌倉時代、三浦半島一帯は三浦氏の支配下にあり、城ヶ島はその水軍(三浦水軍)の本拠地であった。 戦国時代、三浦氏は一度は滅亡するも相模三浦氏として再興していたが、1516年に北条早雲によって新井城、三崎城が落城、滅亡した。この時、亀崎、鈴木、下里、三富、出口を名乗る者を中心とする残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗した。彼らは三崎の船を全て城ヶ島に持ち去ったため、責めあぐねた早雲は建長寺、円覚寺の両和尚に調停を頼んでようやく講和したという(『北条五代記』)。この残党は「三崎十人衆」と呼ばれ(『小田原衆所領役帳』)、北条氏の下で里見水軍の侵攻をよく防いだとされる。彼らの苗字は現在も三崎に残っている。 北条氏の支配下では、梶原景宗率いる北条水軍が房総半島の安房里見氏と対峙した。里見水軍はしばしば城ヶ島周辺を来襲していたが、1562年に城ヶ島に上陸すると、北条軍は三崎城に陣を構えて海戦となった(三崎三浦海戦)。現在、島にこれらの遺構は残っていないが、城ヶ島から三崎を望んだ際に見える高台が三崎城跡である[1]。
江戸時代末期に外国船が頻繁に訪れるようになると、東京湾(江戸湾)の入口に位置する城ヶ島は海防の要所として重要視されることとなった。1808年に浦賀奉行岩本正倫が砲台を築いたのを皮切りに、1810年に幕府より相模海防役を命じられた会津藩主松平容衆は、城ヶ島に遠見番所を設置したり、安房ヶ崎にて大砲発射演習を行うなどの活動を行った。1821年に会津藩に代わって川越藩が相模海防役に就くと、城ヶ島砲台は浦賀奉行の所管となった。米国ペリー艦隊は横須賀の浦賀に来航、久里浜に上陸したが、来訪を真っ先に知らせたのは松輪沖で漁をしていた城ヶ島の漁師であったと伝えられている。また、1854年には三崎の名主吉兵衛が城ヶ島沖に異国船2隻を発見、上宮田の海防陣屋に報告している。
明治に入り、大日本帝国海軍は1894年に臨時東京湾守備隊司令部(東京湾要塞司令部の前身)を設置し、三崎に監視哨を置いた。 1898年、勅令第百七十六号「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」が公布され、次いで1899年に軍機保護法、要塞地帯法が成立する。これによって城ヶ島を含む三浦半島全域が要塞地帯に指定され、三浦半島の観光ガイドブック『三浦大観』が発禁処分になるなど、観光地としての城ヶ島は大打撃を受けた。1905年、日露戦争の最中、海軍は城ヶ島に望楼を設置した。当時、海軍はバルチック艦隊が対馬海峡を通るか、太平洋を抜けて津軽海峡を通るかの進路予測に苦慮しており、この一環であったと思われる[2]。
城ヶ島砲台戦艦安芸城ヶ島砲台跡 砲塔入口城ヶ島砲台跡 観測所(上部は城ヶ島公園展望台)城ヶ島砲台跡
東京湾要塞の一部として島東部の台地上に設置された沿岸砲台(三崎第3区砲台)。艦砲を転用した砲塔砲台で、1945年の終戦まで存在した。
建設当時、三崎地区には既に三崎砲台(1921年竣工)が築かれていたが、関東大震災で損壊した。1924年、参謀本部は東京湾要塞復旧建設要領を策定し、ここに城ヶ島砲台の新設が決定した(三崎砲台の修繕、剱崎砲台の新設も同時決定)。1924年10月12日に工事着手し [3]、1927年4月2日付で竣工が報告された [4]。
設置砲は45口径25cm連装砲塔2基、弾量235kg、最大射程距離24,600mというもので、1923年のワシントン海軍軍縮条約調印で除籍された戦艦安芸 (薩摩級)の舷側主砲塔が転用された。砲塔・砲身は迷彩塗装が施され、演習用の照準器も備えられた。照準装置にはアナログコンピュータを用いた八八式海岸射撃具が設置され、2基の砲塔には電線が通された。この電線は、小網代の高山観測所まで引かれた埋設電線を当地より空中に架線し、現在の県道26号松輪入口交差点付近?岩堂山(ここで一部が剣崎砲台へ分岐)?宮川?向ヶ崎を経て田中(窪ガリ付近)の海底線室から海底を通り、城ヶ島の養老子(現在の新潟造船正門付近)の海底線室から再び埋設線となって安房ヶ崎を経て各砲塔に配された [5] [6]。 東西南の3方向を海に囲まれた地の利から、千葉県鋸南町付近から鎌倉市由比ヶ浜付近に達する広い射界を有した。試験射撃では南方向へ発砲したようである [7]。 竣工後も、砲塔を航空機から隠蔽する偽装屋根、偽装家屋、弾薬庫、観測所などが逐次増築された [8]。 また、井戸を特殊な掘削技術を要する掘抜式の深井戸としたため、その工事は陸軍工兵学校に委託された [9]。 太平洋戦争中には島中央部に野砲陣地や高角砲陣地(未完成)が増築された他、岩礁には洞窟陣地も増設された。
しかし、城ヶ島砲台は第2砲台の傾斜が徐々に進行するという、砲台としては致命的な欠陥を抱えていた。この問題は竣工8ヶ月後の1927年12月6日、第2砲台の傾斜が火砲履歴規則の「許シ得ヘキ限界」に近づきつつあるとして陸軍兵器本廠長より陸軍大臣に報告された。