埋木舎には柳が植えられていた。直弼は柳をことのほか愛し、号にも「柳王舎」を使うことが多かった。 また、直弼はある時、外出先で非常に立腹する事があったが、帰宅して庭に植えられた柳を見て 「むっとして 戻れば庭に 柳かな」という句を読み心を落ち着けたと言われる。
なお、この屋敷には直弼が「?露庵(じゅろあん)」と名付けた小さな茶室があった。
1985年以降の6次にわたる発掘調査で、建物は6期にわたる建て替えの変遷が確認されている。母屋棟からは、北(玄関を入って左奥、来客用)・東(奥座敷につらなる一帯)にW期に属するトイレ遺構を確認している。うち東のトイレは遺存状況が良好で、礎石列で区画されたトイレ空間のなかに2連の甕形汲取式トイレを確認している。甕には、漏らさない工夫として羽が付いており、大便用は羽まで地中に埋め込んでいるが、小便用は、口をやや傾けて地上に設置している。なお、台所棟からも3ヵ所トイレが確認されている。
部屋住み時代の直弼は、のちに腹心となる長野主膳に国学を、さらに曹洞禅、儒学、洋学を学んだ。禅では「有髪の名僧」と呼ばれるほどであったという。書、絵、和歌のほか、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、乗馬、茶の湯など多数の趣味に没頭し、特に居合では新心流から新心新流を開いた。茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流を経て一派を確立した。著書『茶湯一會集』巻頭には有名な「一期一会」がある(この言葉は利休七哲の山上宗二が著した「山上宗二記」が初出だとも言われる)。他にも能面作りに没頭し、能面作りに必要な道具を一式揃えていた。また、湖東焼、楽焼にも造詣が深かったという。半面では世捨て人のような諦念を抱きつつも、半面では「余は一日4時間眠れば足りる」として文武両道の修練に励んでおり、苦悩と屈託の多い青春であったことがうかがい知れる。なお、直弼の日記として『埋木舎の記』がある。
この館は明治4年、払い下げによって大久保氏の所有になり、現在に至る。1984年(昭和59年)の豪雪で倒壊したため全面的に解体修理、また翌年からは発掘調査が行なわれた。今日では、直弼が住んでいたころのように復元され、内部も一般公開されている(有料)。
参考文献
大久保治男「文化財保存の一例 国指定特別史跡「埋木舎」の全面解体修復工事について―国庫補助事業―
(1)(2)(3)」(『武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要』第3・4・5輯、平成18・19・20年3月)。
大久保治男『埋木舎と井伊直弼』2008年09月、サンライズ出版。
所在地・交通アクセス
滋賀県彦根市尾末町1-11
琵琶湖線・近江鉄道 彦根駅 徒歩10分
カテゴリ: 彦根市 | 滋賀県の歴史 | 滋賀県にある国指定の史跡 | 江戸時代の建築 | 日本の考古遺跡 | 井伊氏 | 大久保治男
更新日時:2008年11月8日(土)06:56
取得日時:2008/11/08 20:33