軍の情報関係の仕事をしていたアドルフ・ヒトラーは1919年9月12日の集会に参加し、数日後に入党した。彼はたちまち党に不可欠な巧みな演説者となった。ヒトラーは自分が七番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は555番であり(番号は501番から始まる。)、実際は党幹部中の七番目の幹部であった。ヒトラーはドレクスラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義などを訴える25カ条綱領を作成した。綱領は反資本主義・社会主義色が濃かった。
またヒトラーは党章の募集を発案して、歯科医フリードリヒ・クローンが、義勇軍「エアハルト旅団」( ⇒de)(「コンスル」の前身)が使用していた鉤十字を下地にデザインしたものに修正を加えたものが党章・党旗として制定された。同じ頃、週刊紙『ミュンヒェナー・ベオバハター』を買い取り、党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』を創刊している。ヒトラーが著書「わが闘争」で「私はボルシェヴィズムから最も多く学んだ。」と公言している様にナチ党は左翼の影響が多く見られる。最近の地域史研究では、ナチ党はプロパガンダや組織を左翼勢力から取り入れていたことがわかっている ⇒[1]。例えば、有名な党歌『旗を高く掲げよ』は共産主義者のヴィリ・ブレーデルの詩の焼き直しであることが今日において判明している。しかし、原則に拘らない一連の手法により、ナチ党は泡沫政党から大衆政党へと急成長を遂げていくことになる。集会で入場料を取り、会場で寄付金を集めるというヒトラーのアイディアは成功し、国防軍や富裕層からの資金援助も受け入れ、党の財政を潤した。
党の設立初期にヒトラーは改名を主張したが、ルドルフ・ユング(Rudolph Jung)がオーストリアの Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei の命名パターンに従うことを要求した。「ドイツ労働者党」は1920年2月24日にミュンヘンのビアホールで開かれた党大会に2000人を集め、綱領を発表し、党名を最終的に "Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei" にした。
通称の由来:「ナチ(独: Nazi)」とは、当時の対抗勢力がナチ党員に付けた蔑称であった。ドイツ社会民主党員は同じように Sozialisten を短縮してゾチ (Sozi) と蔑称されていた。ナチス (Nazis) は複数形である。ナチスの呼称は日本で戦前から使用されている(後述の「文献」参照)。現在は英米でも ⇒Nazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツでは現在は、Nazi よりも Nationalsozialismus の略号である NS を接頭語に例えば、NS-Deutschland のように造語される。
正式党名の訳語:「国民社会主義ドイツ労働者党」、「民族社会主義ドイツ労働者党」とも訳される。マルクス経済学の研究者岩田弘は後者の呼称がナチスの主張に即しているとの意見を発表している。各国語では下記の通り翻訳されている。
英語:National-Socialist German Workers Party
仏語:Parti national-socialiste des travailleurs allemands
中国語:民族社會主義?意志工人黨 あるいは 國家社會主義?意志勞工黨
ヒトラーはエルンスト・レーム大尉やディートリヒ・エッカートらの支持もあって党内で勢力を拡大し、1921年7月29日に開かれた幹部会議では指導権を認められて党首となる。また同年8月、レームの設立した党内組織の「体育スポーツ局」(Sportabteilung)は10月には「突撃隊」と改称し、左翼勢力との市街戦の主力となっていく。
1923年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯ルール地方を占領した。ナチスは右翼と共にフランス占領軍に対するテロを展開し、シュラゲター( ⇒Albert Leo Schlageter)がフランス軍により虐殺され、それをナチスが喧伝し、市民の間で英雄視される。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、更に勢力を拡大する。9月には国粋主義的な政党が連合して「ドイツ闘争連盟」が組織され、ヒトラーも指導者の一人になった。このころナチ党は党員数3万5千人で、バイエルン州では有数の政党になっていた。もともとバイエルン州は伝統的に反ベルリンの空気があったが、不穏な空気は1923年9月のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、国粋主義的政党は反ベルリン・反ワイマール共和国を唱えて11月9日、市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000〜3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。この「ミュンヘン一揆」はバイエルン州政府によって鎮圧され、首謀者ヒトラーを初め、党員らは投獄され、投獄を免れた党員も国外逃亡を余儀なくされる。ナチスも危険政党として非合法化され、一時解散することになるが、反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、いくつかのダミー団体が活動を続けた。
党内左派の中心人物のグレゴール・シュトラッサーは党首ヒトラーより先に出獄し、主にドイツ北部と西部において元党員を組織した。後にナチ党のプロパガンダを担当するヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃に彼の秘書として党活動を始めている。当時のゲッベルスは「日和見主義者のヒトラー氏の除名」を提案するなど自他共に認める左派であった。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と訴え、合法的な政権交代を求めて既存勢力(産業界、軍部、貴族階級)との融和を図り、準国営化を唱えたヒトラーとの間に溝を深めてゆく。
1923年から24年にかけて急激に、天文学的なインフレになり、多くの国民が失業するなど、政権が混乱していた中、 1925年にヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国、ナチ党が再結成される。再結成後のナチ党は選挙運動に徹する。同年、「突撃隊」の下部組織として、ヒトラー警護のために「親衛隊」が結成される。1929年、突撃隊上級大佐のハインリヒ・ヒムラーが第4代の親衛隊全国指導者に選ばれる。
「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と主張していたゲッベルスの行ったプロパガンダ活動の多くは政敵の共産党を模倣したものであり、戸別訪問、党専属の楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布や、対立する政治家に対する猛烈なネガティブ・キャンペーン、ラジオを利用した政見放送、航空機を利用した遊説旅行、「ドイツ社会民主党」防衛隊を真似した旗を掲げ厳格な統制に従う「突撃隊」の街頭行進、町の壁を埋め尽くすポスター等強烈なビジュアルインパクトを与える内容であった。