日本の敗戦後、共通の敵を失い再び国民党と共産党は戦後構想の違いより対立へと転じ、1946年6月より内戦を再開させた。というよりも、元々両者ともこの結果は予想済みであり、国民党軍はむしろ抗日戦の最中も来るべく共産党との決戦に備え、兵力温存を図っていた。国民党軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約128万(正規軍60万)と比べ優位に戦闘を進め、東北部を除く中国全土で支配地域を拡大した。
さらに蒋介石は東北部の権益と引き換えにイデオロギーを棚上げにしてスターリンと協定を結び、ソ連から中国共産党への支援は消極的なものとなる。その間に国民党軍は東北部で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は東北部で敗退・撤退し、国民党は大陸部の大部分は手中に収めようとしていた。
しかしながら抗日戦において消極的で兵力温存を図った事は、結果として国民党にとって大きな失敗となる。このような状況において、民衆は抗日戦において積極的であった共産党を支持し、国民党は民衆から乖離する事となった。また法幣の大量発行がインフレーションを招いた事も、農民を中心とした民衆の支持を失う事となった。また抗日戦の際の兵力温存は、軍の弛緩を招き、内戦時の度重なる戦闘において兵士の士気の低下となって現れた。
またアメリカも日本軍への抵抗を期待して国民党を援助したにもかかわらず、兵力温存を図り期待した通りの働きをしなかった国民党軍に対して、大きく不信感を抱く事となった。結果として、第二次世界大戦の終結以降、ヨーロッパにおける冷戦の開始や日本の占領政策に集中する事もあり、アメリカから国民党への支援は先細りになっていった。
一方の共産党は、戦後撤退していく日本軍から最新式の兵器を奪取する作戦を遂行しており、兵力温存を図った国民党軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。
以上の結果、農村部を中心に国民党の勢力は後退していき、共産党が勢力を盛り返していき、徐州を中心に展開された淮海戦役での勝利などを経て、最終的には毛沢東率いる共産党が北京、南京、上海などの主要都市まで占領することとなった。その結果、1949年に共産党による中華人民共和国が成立した一方、中華民国を率いる国民党の指導者蒋介石は台湾へ逃れた。
第二次世界大戦後、蒋介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蒋介石を支援。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦を勝利に導くなど、際立った効果をあげた。[要出典]
その後、中国大陸では現在に至るまで共産党による一党独裁政治が続くことになる。台湾では、国民党の圧政に対する二・二八事件の鎮圧以降40年にわたって戒厳令が施行され、国民党が強権的に台湾を支配する時代が続いたが、1980年代に入り戒厳令が停止され自由選挙が行われるなど急速に民主化が進み、現在は議会制民主主義を元にした民主主義国家となっている。
関連項目
蒋介石
孫文
毛沢東
宋美齢
張作霖
張学良
周恩来
林彪
西安事件
中国国民党
中華民国の歴史
江青
フランクリン・ルーズベルト
クレア・リー・シェンノート
中国山西省日本軍残留問題
南日島戦役
表・話・編・歴冷戦
参加: 西側諸国 - 東側諸国( - 非同盟諸国)
1940年代
冷戦の始まり45年〜ヤルタ会談 - ポツダム会談 - 国共内戦 - ギリシャ内戦 - トルーマン・ドクトリン - マーシャル・プラン - ベルリン封鎖
1950年代
波及と雪解け
〜54年マッカーシズム - 朝鮮戦争 - 第一次インドシナ戦争 - PBSUCCESS作戦
55年〜スターリン批判 - ハンガリー動乱 - 第二次中東戦争 - スプートニク・ショック - 金門砲戦 - キューバ革命
1960年代
対立の激化〜64年コンゴ動乱 - ベトナム戦争 - U-2撃墜事件 - ピッグス湾事件 - ベルリンの壁 - キューバ危機
65年〜9月30日事件 - プラハの春 - デタント - 文化大革命 - 中ソ国境紛争