隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の高句麗に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし新羅と連合して660年にまず南の百済を滅ぼし、668年には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、平壌に安東都護府を設置する。
しかしその後は新羅が勢力を拡大し、半島の支配をめぐって唐と対立するようになると安東都護府は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅はその後、唐の冊封を受けて和解した。
一方同じ頃、東北地方(満州)ではこの地方に移住させらされた高句麗の遺民たちが中心となって震国(のち渤海)を立て、唐から独立した。当初はこの国に対して遠征軍を送ったが、この国が朝貢を行うようになると渤海郡王に冊封した。やがて渤海王・大武芸は黒水靺鞨の支配をめぐって唐と対立し、733年には水軍を送って山東半島の登州を一時占領したが、間もなく講和した。
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続け、東方は唐にとって比較的安定した領域であった。
南越の滅亡以来、長い間中国の支配下に置かれていたベトナムは、漢代から何度と無く独立運動を起こしており、この地に安南都護府を置いていたが、反抗は激しく実質的に統治は出来ていなかったようだ。
安史の乱で唐が衰えて以降は、吐蕃の盟下にいた雲南の南詔が勢力を拡大、四川の成都付近まで進出した。また南詔は、唐の安南都護府を何度か滅ぼし、その都度奪回はしてはいたものの、もはやこの地方に唐の支配力は及ばなくなっていった。
日本からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が660年に日本の同盟国である朝鮮半島の百済を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。さらに663年、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を白村江の戦いで打ち破る。
しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて遣唐使による平和的通交が再開された。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。
9世紀になると唐の衰えと日本独自の文化の発展から日本側が危険を冒して遣唐使を送る意欲を失っていった。894年、菅原道真の建議により遣唐使は廃止され、その後明の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。
皇帝名統治年数元号
高祖李淵618年-626年武徳 618年-626年
太宗李世民626年-649年貞観 627年-649年
高宗李治650年-683年永徽 650年-655年
顕慶 656年-661年
龍朔 661年-663年
麟徳 664年-665年
乾封 666年-668年
総章 668年-670年
咸亨 670年-674年
上元 674年-676年
儀鳳 676年-679年
調露 679年-680年
永隆 680年-681年
開耀 681年-682年
永淳 682年-683年
弘道 683年
中宗李顯684年(705年-710年に重祚)嗣聖 684年
睿宗李旦684年-690年(710年-712年に重祚)文明 684年
光宅 684年
垂拱 685年-688年
永昌 689年
載初 690年
武周(690年 - 705年)
則天大聖皇帝武?690年-705年天授 690年
如意 692年
長寿 692年
延載 694年
証聖 695年
天冊万歳 695年
万歳登封 696年
万歳通天 696年
神功 697年
聖暦 698年