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文学

唐は歴代でも漢詩の最高峰とされる時代である。日本にも『唐詩選』などを通じて多く紹介されており、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。

初唐の代表的詩人として、王勃楊炯盧照鄰駱賓王の四人を初唐の四傑と呼んでいる。盛唐の詩人としては王維孟浩然岑参高適王昌齢などがあり、更に李白杜甫の中国歴代でも最高とされる両人がいる。中唐では白居易元?(?は禾編に真)が代表とされ、晩唐の代表が李商隠である。

中唐において韓愈柳宗元らにより、それまでの六朝から引き継いだ四六駢儷体と呼ばれる華美であるが、空疎になってしまう事もある文体を代の質実剛健な物に戻そうと言う運動が行われ、それが漢詩においても反映されている。

歴史の分野においては、太宗によりそれまでに作られていなかった時代についての歴史書を作るようにとの命が出され、『晋書』・『梁書』・『陳書』・『周書』・『隋書』が房玄齢らにより編纂された。『史記』や『漢書』などは私選の書物が後から国定に昇格したものであるが、この事業の後は正史は国選のものとされ、滅びた王朝の正史を作る事が時代の王朝にとってある種の義務となった。しかし「このことにより、正史が国家の正当を主張するための道具とされるようになった」と批判する人もいる。また劉知幾による『史通』は中国に於ける史学を開いた存在とされ、後世の史学者にとって必携の書となった。

六朝時代に誕生した志怪小説が伝奇小説へと内容的に変貌を遂げて流布するようになり、『古鏡記』や『遊仙窟』、『杜子春伝』といった数々の作品が生み出された。


美術龍門石窟唐三彩

唐代の美術品については安史の乱や黄巣の乱により、多くが破壊され、現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは莫高窟龍門石窟などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、更に仏教美術が圧倒的に多いことが特徴であり、これらは西方の影響が強いと考えられる。

絵画に於いては閻立本・呉道玄・李思訓・王維と言った名前が挙がる。閻立本は太宗に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。ボストン美術館にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、北宋代の模写であると推察されている。呉道玄は玄宗に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたと言う。蘇軾曰く「画は呉道士(道玄の元の名)に至りて終われり。」と。しかし作品は全て現存していない。李思訓は武則天期の人で、色鮮やかな山水画を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ北宗画・南宗画の祖として扱われるようになる。これが安史の乱以降になると、西方の影響が薄れて水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られるようになる。この代表として同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は王墨・李霊省・張志和の三人を挙げている。

王羲之によって芸術の域にまで高められた書はその王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎える。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が虞世南?遂良欧陽詢である。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものであるが、これに対して張旭は狂草と呼ばれる奔放な書体をつくり、更に張旭に師事した顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てた。上述の呉道玄と同じく蘇軾曰く「書は顔魯公に至りて終われり。」と。[6]

陶磁器の分野では唐三彩と呼ばれる逸品が作られた。これらにはサーサーン朝の影響があると言われており、その名のとおり色鮮やかなことが特徴である。人物像や動物像(俑)などが多く、器になっているものも実用性の低いものが多い。一方、高温度で焼成する磁器も作られ始め、次代の宋代に於ける磁器の最盛期の基礎となっている。


国際関係

唐の最大領域は高宗期の7世紀半ばであり、東西は朝鮮北部から天山山脈のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域では異民族を緩やかに支配する間接支配を取っている。

唐の異民族支配は羈縻支配(きびしはい)と呼ばれる。この政策は冊封と似ているが、少し違い、その異民族の支配地に唐の地方制度の一単位である都督府・羈縻州を設置し、その長官に異民族の長を任命して自治権を認めるものである。完全な直接支配と冊封との間を取ったものと言える。

都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。

安西 - 640年設置。シルクロードの天山南路の守備。

安北 - 647年設置。外モンゴル支配。

単于 - 650年設置。内モンゴル支配。

安東 - 668年設置。朝鮮満州支配。

安南 - 679年設置。ベトナム・その他の南海諸国支配。

北庭 - 701年設置。天山北路の守備。

盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、高句麗高仙芝百済黒歯常之日本人阿倍仲麻呂や雑胡(異民族の混血)の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。まったく外国人に対する差別が無かった訳ではないが、唐代は歴代でも極めてその傾向が低いと言える。

安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境地方への節度使の配置を進め、羈縻支配を改めていった。しかしこのことは周辺諸国の動きを活発化させ、ウイグルや吐蕃により唐の周辺は非常に不安定になる。9世紀にはそのウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki