科挙制度において儒教の経典が必須科目となり、太宗は孔穎達に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった五経を一つの解釈にまとめる『五経正義』を編纂させた。このことによりそれまでの不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとした。しかしこれによって逆に思想の発展が阻害されることにもなった。
後漢代に伝来した仏教は魏晋南北朝時代の混乱の中で飛躍的にその勢力を伸ばし、在来宗教である道教を圧するほどになった。玄奘・義浄などはインドへ赴いて大量の経典を持ち帰った。貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。特に武則天は仏教を厚く保護したことで有名である。この時代の宗派には禅宗・浄土教・密教・華厳宗などがあり、それぞれ栄えたが、三階教は徹底的に弾圧された。
皇室の李氏は李耳(老子)を祖とすると称していたので、道教は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後と言う原則が定められていた。特に玄宗はその廟号も道教風であり、道教に傾倒している。しかしこの保護はあくまで皇族の間に留まり、民間では圧倒的に仏教の勢力が強かった。
その他にも長安にはイスラム教・マニ教・景教(ネストリウス派キリスト教)・?教(?は示偏に天。ゾロアスター教)などの寺院が立ち並び国際都市としての景観を持っていた。これらが領土の広さと並んで唐の世界国家としての象徴である。
しかし安史の乱以後は領土が縮小し、西方を吐蕃に奪われたことで次第に国粋主義的になった。第15代武宗は道教を信奉し、仏教を初めとした外来宗教を弾圧した(会昌の廃仏・三武一宗の法難の第三)。ただしこの弾圧は宗教的な色は薄く、出家することで税逃れをする私度僧と呼ばれる者を還俗させる事で財政の改善を狙う目的が主だった。しかしながらこの弾圧を契機として、仏教はもとより上記の各宗教も大打撃を被り、往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教も、禅宗や再興した天台宗が中心となるが、それらは、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなっていた。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である百丈清規中の「一日作さざれば一日食らわず」という有名な言葉に表されている。
また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、韓愈の著した『原道』『原性』などの中に見られる思想で、堯舜や孔子以来脈々と続く「道統」論を提唱し、宋学の先駆となった。
唐は歴代でも漢詩の最高峰とされる時代である。日本にも『唐詩選』などを通じて多く紹介されており、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。
初唐の代表的詩人として、王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王の四人を初唐の四傑と呼んでいる。盛唐の詩人としては王維・孟浩然・岑参・高適・王昌齢などがあり、更に李白・杜甫の中国歴代でも最高とされる両人がいる。中唐では白居易・元?(?は禾編に真)が代表とされ、晩唐の代表が李商隠である。
中唐において韓愈・柳宗元らにより、それまでの六朝から引き継いだ四六駢儷体と呼ばれる華美であるが、空疎になってしまう事もある文体を漢代の質実剛健な物に戻そうと言う運動が行われ、それが漢詩においても反映されている。
歴史の分野においては、太宗によりそれまでに作られていなかった時代についての歴史書を作るようにとの命が出され、『晋書』・『梁書』・『陳書』・『周書』・『隋書』が房玄齢らにより編纂された。『史記』や『漢書』などは私選の書物が後から国定に昇格したものであるが、この事業の後は正史は国選のものとされ、滅びた王朝の正史を作る事が時代の王朝にとってある種の義務となった。しかし「このことにより、正史が国家の正当を主張するための道具とされるようになった」と批判する人もいる。また劉知幾による『史通』は中国に於ける史学を開いた存在とされ、後世の史学者にとって必携の書となった。
六朝時代に誕生した志怪小説が伝奇小説へと内容的に変貌を遂げて流布するようになり、『古鏡記』や『遊仙窟』、『杜子春伝』といった数々の作品が生み出された。
唐代の美術品については安史の乱や黄巣の乱により、多くが破壊され、現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは莫高窟や龍門石窟などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、更に仏教美術が圧倒的に多いことが特徴であり、これらは西方の影響が強いと考えられる。
絵画に於いては閻立本・呉道玄・李思訓・王維と言った名前が挙がる。閻立本は太宗に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。ボストン美術館にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、北宋代の模写であると推察されている。呉道玄は玄宗に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたと言う。蘇軾曰く「画は呉道士(道玄の元の名)に至りて終われり。」と。しかし作品は全て現存していない。李思訓は武則天期の人で、色鮮やかな山水画を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ北宗画・南宗画の祖として扱われるようになる。これが安史の乱以降になると、西方の影響が薄れて水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られるようになる。