6世紀に巨大帝国を築いた突厥は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の626年には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。
しかしその後の貞観の治により唐は急速に国力を拡大し、630年には突厥から独立した鉄勒と挟撃して東突厥を滅ぼして羈縻支配に組み込み、安北都護府(設置当初の名称は燕然都護府)・単于都護府を設置した。
太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗(カガン)はハーン、すなわち遊牧民世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。これは当時の唐帝国が帯びていた遊牧民的世界性を如実に示している。
しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、682年に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は745年にウイグルを中心とした部族連合(「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる遊牧国家を建設する。
ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし8世紀にキルギスの攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。
唐は640年に高昌国(現トルファン)を滅ぼしたのを初めとして、シルクロード沿いのオアシス国家を服属させて安西都護府(クチャ)を設置し、西域経営を行った。
また635年に青海の吐谷渾を支配下に置き、チベット高原の吐蕃も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を和蕃公主として嫁がせるなどして懐柔に努めた。
唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・パミール高原以西のトランスオクシアナにまで及ぶが、751年のタラス河畔の敗戦によって頓挫、中央アジアの支配権はイスラム帝国に譲ることになる。
さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、822年に唐と和睦した。
さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、天山ウイグル王国や甘州ウイグル、タングート(後の西夏)などの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降はインド洋・南シナ海を通じて西アジアの商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くのアラブ人やペルシア人のムスリム商人が広州に来航した。
隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の高句麗に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし新羅と連合して660年にまず南の百済を滅ぼし、668年には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、平壌に安東都護府を設置する。
しかしその後は新羅が勢力を拡大し、半島の支配をめぐって唐と対立するようになると安東都護府は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅はその後、唐の冊封を受けて和解した。
一方同じ頃、東北地方(満州)ではこの地方に移住させらされた高句麗の遺民たちが中心となって震国(のち渤海)を立て、唐から独立した。当初はこの国に対して遠征軍を送ったが、この国が朝貢を行うようになると渤海郡王に冊封した。やがて渤海王・大武芸は黒水靺鞨の支配をめぐって唐と対立し、733年には水軍を送って山東半島の登州を一時占領したが、間もなく講和した。
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続け、東方は唐にとって比較的安定した領域であった。
南越の滅亡以来、長い間中国の支配下に置かれていたベトナムは、漢代から何度と無く独立運動を起こしており、この地に安南都護府を置いていたが、反抗は激しく実質的に統治は出来ていなかったようだ。
安史の乱で唐が衰えて以降は、吐蕃の盟下にいた雲南の南詔が勢力を拡大、四川の成都付近まで進出した。また南詔は、唐の安南都護府を何度か滅ぼし、その都度奪回はしてはいたものの、もはやこの地方に唐の支配力は及ばなくなっていった。
日本からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が660年に日本の同盟国である朝鮮半島の百済を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。さらに663年、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を白村江の戦いで打ち破る。
しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて遣唐使による平和的通交が再開された。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。
9世紀になると唐の衰えと日本独自の文化の発展から日本側が危険を冒して遣唐使を送る意欲を失っていった。894年、菅原道真の建議により遣唐使は廃止され、その後明の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。