初唐に於いては南北朝時代からの風潮を引き継いで、未だ貴族勢力が強い力を保持していた。皇室の李氏を含めて初唐の支配者層を形成したこれらの集団はいずれも同じ関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団の事を関隴貴族集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。
この関隴系の貴族は鮮卑系の北朝貴族であり、この他には漢族と北斉の流れを組む山東系貴族、そして南朝の流れを組む南朝貴族がある。血脈の尊貴さという考え方は魏晋南北朝時代を通して、強く刷り込まれており、唐が建国された後でもそれは変わらず、長い歴史を持ち最高の名門とされる山東系のもの達から見れば、関隴系は土族としか見えなかった。
これに対して自らより家格が高いとされる家と婚姻関係を結ぶ事で自らの家格を上げることが行われていたが、この場合は下の家格の者が上の家格のものに対して莫大な結納金を積むのが常であった。このような状態を打破するために太宗は貴族の格付けのための本である『氏族志』の編纂を命じ、そこで皇室の李氏を第一等とした。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。
このようなことが行われる事は、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたと言う事を示している。
貴族勢力は政治に影響力を及ぼすに当たり、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を支配下に置いており、貴族勢力を脅かそうとするものをこの力で排除していた。
上位官僚には課役の免除、刑罰を金銭であがなえるなどの特権が与えられており、また資蔭と呼ばれる官僚採用法があり、親の官品に応じて子が任官できる制度である。初唐の政治は貴族により掌握されており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。
その一方で隋より受け継いだ科挙も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。更に前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。
この体制を崩そうとしたのが武則天である。武則天自身も関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の後押しは難しい状態にあった。そこで武則天は科挙を通過してきた者を積極的に登用し、貴族政治を崩そうとした。
武則天の政治自体は705年の時点で終わったものの、次に権力を握った玄宗は武則天が登用した閣僚を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行った。しかし玄宗が後期に堕落したことでこの方針は一時期遠のく。
中期以降の唐では科挙出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職につけない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめる事は出来ず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験するものも増える。
牛僧孺と李宗閔を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、政策争いから次第に党派争いへと堕し、この時期には既に唐の国力は傾いていた事もあって反って国力を弱める結果となった。
律令制下の官制は三省六部を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行い、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が勤めていた時期があったため唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右一名づつ)が実質上の長官であった。
これら6人の省の長官たちが宰相職とされ、重要政策の決定は宰相の合議によって行われた。しかし次第に中書令の権力が強くなり、皇帝の代理人としての力を振るうことになる。
尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。
また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行った。
これらの部署に配置される官僚達は従九品下から正一品までの計30階位に分けられている。
しかし律令制の崩壊に伴い、新たな状態に対応するために新たな官職が設けられるようになった。主なものに州の監察を行う観察使、国家財政を司る度支使、運送を司る転運使、後述の塩鉄専売を司る塩鉄使などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る権限を示す。これら令外官を使職と言い、令制官はそのまま形骸だけを残される。この状態は北宋にまで引き継がれ、神宗の元豊の改革まで残る。
これら使職は律令によって定められる役職の権限を上回って存在し、度支使は本来の財政担当である六部の一つ・尚書戸部を上回る権限を持つこともあり、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。その後、塩鉄使が転運使を兼ねて東南部の財政を、度支使が西北部の財政を監督するようになる。しかし節度使の割拠により、それらの地域の監督が難しくなると度支使と塩鉄使と戸部曹が一本化され、三司と称して中央財政を司る。
またそれまで中書省の中書舎人が行っていた詔勅の起草が、玄宗によって作られた翰林学士により奪われ、翰林学士はこれも宰相に準ずる職として大きな権限を持つ事になる。
唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。
道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を行うのは刺史を長官とする州(郡)と、その下にあって県令を長官とする県の二本立ての行政区画である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。
県の下に100戸をまとめて1里とし、5里を1郷とする行政単位がある。この制度を郷里制と呼び、これは隋より受け継いだものである。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ里正と言う役が里の中から選ばれ、徴税・犯罪の取り締まりなどに当たった。これと並列して隣保制と言うものがある。これは郷里の中間組織として運用されていたと考えられているが、実際にどのように運営されていたかは資料の間で食い違いがあり、現在の所はっきりとは分かっていない。
安史の乱後は節度使・観察使の藩鎮勢力が地方に割拠するようになり、中央の地方への影響力は甚だ衰えた。州も本来は中央直属なのであるが、実質的に藩鎮の下部組織となってしまった。
また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれており、有事に備えた。
唐代は歴代王朝の中でも後漢・明と並んで宦官悪の顕著な時代とされている。唐に於いて最初に権勢を持った宦官は玄宗の側近であった高力士である。