文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙った。この時期、牛僧孺と李徳裕の政争が激しくなり、激しい党争により政治の活力は失われていった。これは牛李の党争と呼ばれる。
政乱による国力の低下は地方の圧政につながり、859年の裘甫の乱、868年の??の乱に代表される反乱が各地で起きた。874年ごろから黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及し、黄巣は長安を陥とし、国号を斉として皇帝となった。しかし黄巣軍の構成員はその多くが貧民の出なので政務が出来ず、自滅に近い形で長安を去った。この時に黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り、唐に味方した。朱温は唐から全忠の名前を貰い、以後朱全忠と名乗る。この頃になると既に唐朝の支配地域は首都長安の周辺のみとなった。
経済の先進地である河南地方の節度使となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して唐の権威を借りて勢力を拡大した。907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力をもたず、中国は五代十国の分裂時代に入る。
※兵制については下の唐#税制・兵制の項で述べる。
西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝により「開皇律令」が編纂され、唐はそれを受け継いで、何度か修正が加えられつつ運用されていた。
律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に当てはまらないようなことを解決するために出された詔勅のうち、それが法として新たに加えられるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。
後述する三省六部、九品制、均田制、府兵制などは令によって規定されるもので、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼んでいる。
唐律令は何度か変更がなされ、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。
ところが、この時既に律令が現実の政治状況と乖離していたとの指摘がなされており、それに代わって詔勅と格が現実に適応するためのものとして重要な役割を果たしたとされる。律令は体制の中心としては権威を持っていたが、実際に運用するに当たっては律令がそのまま適用されると言うわけではなかった。
更に安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、格式が重要視され、律令は形骸化する。
初唐に於いては南北朝時代からの風潮を引き継いで、未だ貴族勢力が強い力を保持していた。皇室の李氏を含めて初唐の支配者層を形成したこれらの集団はいずれも同じ関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団の事を関隴貴族集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。
この関隴系の貴族は鮮卑系の北朝貴族であり、この他には漢族と北斉の流れを組む山東系貴族、そして南朝の流れを組む南朝貴族がある。血脈の尊貴さという考え方は魏晋南北朝時代を通して、強く刷り込まれており、唐が建国された後でもそれは変わらず、長い歴史を持ち最高の名門とされる山東系のもの達から見れば、関隴系は土族としか見えなかった。
これに対して自らより家格が高いとされる家と婚姻関係を結ぶ事で自らの家格を上げることが行われていたが、この場合は下の家格の者が上の家格のものに対して莫大な結納金を積むのが常であった。このような状態を打破するために太宗は貴族の格付けのための本である『氏族志』の編纂を命じ、そこで皇室の李氏を第一等とした。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。
このようなことが行われる事は、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたと言う事を示している。
貴族勢力は政治に影響力を及ぼすに当たり、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を支配下に置いており、貴族勢力を脅かそうとするものをこの力で排除していた。
上位官僚には課役の免除、刑罰を金銭であがなえるなどの特権が与えられており、また資蔭と呼ばれる官僚採用法があり、親の官品に応じて子が任官できる制度である。初唐の政治は貴族により掌握されており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。
その一方で隋より受け継いだ科挙も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。更に前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。
この体制を崩そうとしたのが武則天である。武則天自身も関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の後押しは難しい状態にあった。そこで武則天は科挙を通過してきた者を積極的に登用し、貴族政治を崩そうとした。
武則天の政治自体は705年の時点で終わったものの、次に権力を握った玄宗は武則天が登用した閣僚を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行った。しかし玄宗が後期に堕落したことでこの方針は一時期遠のく。
中期以降の唐では科挙出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職につけない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめる事は出来ず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験するものも増える。
牛僧孺と李宗閔を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、政策争いから次第に党派争いへと堕し、この時期には既に唐の国力は傾いていた事もあって反って国力を弱める結果となった。
律令制下の官制は三省六部を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行い、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が勤めていた時期があったため唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右一名づつ)が実質上の長官であった。