中華人民共和国の建国後、周恩来は政務院総理(内閣総理大臣に相当)に就任し、1976年に死去するまで27年間この地位にあった。
周恩来は1954年のジュネーヴ会議に中華人民共和国代表として出席し、インドシナ戦争休戦の実現に尽力し、その間にインドのネルー首相と会談して、平和共存・内政不干渉などの平和五原則を発表した。翌1955年にはインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも出席して、新生中国がアジア・アフリカの反植民地主義の立場にあることを世界に示した。
彼の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。また、その人柄からリチャード・ニクソンやヘンリー・キッシンジャー、田中角栄など、諸外国の指導者層からも信頼が厚かった。
文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。有力幹部の殆どが失脚、または死亡する者さえいた中、周恩来は最後まで地位を保った。文革の勃発時に共産党政治局常務委員(党の最高首脳)だった者の中で、最後まで一度も失脚しなかったのは毛沢東を除けば周恩来と陳雲、朱徳だけであった。但し、後の二人は実際は何の実権も無い名誉職であった。周恩来は毛沢東の路線に従い、毎日紅衛兵を接見して指示を与えた。劉少奇を「敵のスパイ」と決め付ける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。
その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。
しかし、周恩来のこれらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として、彼の養女であり女優であった孫維世の悲劇がある。孫維世は毛沢東の妻江青の激しい憎悪の対象であり(江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからだと言われる)、その差し金によって逮捕された孫維世は獄中で拷問を受け、死亡した。その遺骸は全裸で、全身傷だらけだったと言う。しかし周恩来は養女である彼女のために何も出来なかった。この様な仕打ちを受けても毛沢東に協力し続けた彼を批判する声は多い。
転機となったのが1971年の林彪失脚(林彪事件)であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバー2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の暗殺を計画したが失敗。ソ連に逃亡する途中に搭乗機がモンゴルで墜落し死亡した。これが契機となってケ小平が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来はケ小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。
更にその後、周恩来は江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後のケ小平による「改革・開放」の基盤を築いた。
周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。後に周恩来自身が侍医に「文革によって寿命が十年縮まった」と語ったと言う。
1972年、膀胱癌が発見され、1976年周恩来は北京の解放軍第三○一病院で死亡した[3]。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという第1次天安門事件が起こった。また、その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻のケ穎超と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。周の葬儀には宋慶齢も参列した。
外国人による評価周恩来(中央。右は毛沢東、左はアメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官)
1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来を「今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人に数え、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。
ダグ・ハマーショルド元国連事務総長は「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と断言している。
ノロドム・シハヌークはクメール・ルージュに苦しめられた経験などから反共主義者だったが、周恩来だけは高く評価していた。その理由を尋ねられたシアヌークは「だって、彼のほうが私よりよっぽど王族らしいじゃないか」と答えている。
『周恩来伝』を書いたジャーナリスト、D・ウィルソンは周恩来をケネディやネルーと比較して、「密度の濃さが違っていた。