大敗した劉備は翌年の223年に病死し、その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が政治・軍事の全てを司るようになった。以降、蜀漢と呉は再び和睦して魏に対抗するようになる。
この年から何度か魏の曹丕による侵攻を受けるが、これは全て撃退する。226年にはそれまで服属させていた交州(現在のベトナムトンキン周辺)を直轄領に組み込み、南海貿易の利益を呉が独占することになった。
227年から蜀漢の諸葛亮による北伐作戦が開始される。同盟関係にある呉でもこれを援護するために何度か軍を出すが、あまり芳しい結果は得られず、退却することが多かった。なお、実質的に両者の同盟は対等であるが、劉禅は皇帝、孫権は王であったことから、劉禅の側は名目上、孫権を臣下として扱っていたようである。
229年、孫権は皇帝に即位して元号を黄龍と改め、建業に遷都した。蜀漢では、原則論として孫権の即位を認めるべきではないから同盟を破棄すべきとの意見が続出したが、諸葛亮の説得で孫権の即位を認め、改めて対等同盟を結んだ。また、魏を打ち破った後のその支配区分として、徐州、豫州、幽州、青州は呉が、并州、涼州、冀州、?州は蜀漢が支配するものとし、司隷は函谷関を境界線として、東は呉、西は蜀漢が占める取り決めをかわした。幽州は呉にとって飛び地となるが、これは海上からの侵攻を想定したものではないかといわれている。次に触れる公孫氏などとの交渉も、海上より船を利用したものであった。
その後、孫権は遼東の公孫氏に使者を送って魏を挟撃しようとしたり、東の夷州・亶州(今の台湾・沖縄諸島)に人を集めさせに兵を派遣したりしたが、亶州に辿り着けずにいずれも失敗。更には蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻めるが、曹叡の親征軍を前に撤退、三国の間は膠着状態が続いた。
孫権は241年に期待をかけていた皇太子孫登が死去した頃から次第におかしくなり始め、側近の呂壱を重用し始め、在地豪族層の反感を買った。
また孫登の死後に三男の孫和を皇太子に立てたが、四男の孫覇との間での継承争いが置き、家臣団が真っ二つになって争いあう事態となった。この時に孫権は孫和側に立っていた丞相・陸遜の権限を奪い去るということをした。このことで陸遜は憤死し、その他の孫和派の重臣たちも流罪とされ、孫覇派が勝利した。しかしその後に孫覇派の重臣が死去したこともあって孫和派が持ち返し、内紛は泥沼化した(二宮事件)。
250年、孫権はようやく決断を下し、孫和を庶子に落とし、孫覇に対して自殺を命じ、皇太子には七男の孫亮を付ける事にした。しかしこのことで呉内部の亀裂は修復不可能なものとなっており、後にそれが噴出することになる。
252年に孫権は死去し、10歳で孫亮が皇帝となった。10歳児に政治が理解できるはずもなく、太傅の諸葛恪が政権を握る。諸葛恪は孫権の死後を狙って侵攻してきた魏軍に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗に終わる。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺された。
諸葛恪の死後、代わって孫峻が丞相となり政権を握る。孫峻は民衆の苦しみに関心を払わず、自分の権勢と奢侈のためだけに権力を振り回したため、不満を持った者たちが孫峻の暗殺を謀るも失敗に終わった。結局孫峻は256年に唐突に(諸葛恪に殴られる夢を見て、恐ろしさのあまり)死去し、その権力は従弟の孫?(そんちん、?は糸偏に林)に引き継がれる。
孫?は反対勢力を潰して政権を握るが、この頃になると孫亮にも自覚が芽生え始め、自らの政治を行おうと考え始める。258年、魏で諸葛誕の反乱が起きる。これに孫?は介入するが失敗に終わる。孫?の影響力が低下したことを見た孫亮は孫?の排除を図るが、逆に孫?により廃位され、孫権の六男・孫休が代わりに擁立された。
孫休は即位すると、巧みに孫?への反感を覆い隠して孫亮のように廃位されることを避け、孫?が油断したところで逆クーデターを起こして孫?を誅殺した。親政を始めた孫休は五経博士の設置、農政・治水事業、汚職の追及など立て続けに改革を打ち出し、衰退に向かっていた呉を一時的に食い止めた。しかしその後の孫休は学問とキジ狩りに没頭するようになり、政治は重臣の濮陽興と張布に任せきりとなった。
263年、魏の司馬昭が派遣した軍により蜀都・成都が陥落。遂に三国の一翼が崩れた。同時に呉では交州が離反した。魏の蜀侵攻に対して呉からも兵を送り、蜀の救援、それがだめなら蜀の領土を少しでも奪うことを目指したが、いずれも失敗し、強大化した魏(司馬氏政権)とまともに国境を接することになった。
翌年に孫休が死去し、孫休の子供はまだ幼いことから孫権の三男で廃太子であった孫和の子の孫晧が擁立された。孫晧は聡明な文武両道の人物と謳われており、擁立した濮陽興と張布の期待もそこにかかっていた。しかしこれは呉にとって最悪の決定であった。
孫晧はまず、閣僚の一新と父・孫和への皇帝号の追号し、食料開放による貧民救済などを行ったが、その後刑法を乱用し孫休の妻と息子たちを皆殺しにし、莫大な費用を投じて武昌への遷都を行いそこに壮麗な宮殿を建てた末、その翌年には再び建業へと都を戻すということを行った。
武昌への遷都を行った265年、司馬炎が魏の皇帝曹奐より禅譲を受けて晋を建てた。呉にとっては幸いなことに司馬炎即位直後の晋ではすぐに遠征軍を繰り出すことはせず、呉は孫晧の政治で腐敗はしていたが、まだしばらくの平和を得た。
この頃になると国内では孫晧に対する反乱も起きるようになるが、孫晧は省みずに後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺していた。この中で陸遜の息子の陸抗が呉の防衛を一人で支えていたが、274年に陸抗が死ぬと、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。
そして279年、晋は30万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の将兵には孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、翌280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した。
20世紀に入り、呉に関連した考古学上の発見が相次いだ。1984年に南京市近郊の馬鞍山で発見された呉の将軍朱然の墓や、1996年に長沙市で発見された10万枚以上の簡牘(走馬楼簡牘)などにより、呉の文化や地方政治について研究が続けられている。2006年には、呉の時代に作られたと見られる古墓が南京市で発見された。