翌年に孫休が死去し、孫休の子供はまだ幼いことから孫権の三男で廃太子であった孫和の子の孫晧が擁立された。孫晧は聡明な文武両道の人物と謳われており、擁立した濮陽興と張布の期待もそこにかかっていた。しかしこれは呉にとって最悪の決定であった。
孫晧はまず、閣僚の一新と父・孫和への皇帝号の追号し、食料開放による貧民救済などを行ったが、その後刑法を乱用し孫休の妻と息子たちを皆殺しにし、莫大な費用を投じて武昌への遷都を行いそこに壮麗な宮殿を建てた末、その翌年には再び建業へと都を戻すということを行った。
武昌への遷都を行った265年、司馬炎が魏の皇帝曹奐より禅譲を受けて晋を建てた。呉にとっては幸いなことに司馬炎即位直後の晋ではすぐに遠征軍を繰り出すことはせず、呉は孫晧の政治で腐敗はしていたが、まだしばらくの平和を得た。
この頃になると国内では孫晧に対する反乱も起きるようになるが、孫晧は省みずに後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺していた。この中で陸遜の息子の陸抗が呉の防衛を一人で支えていたが、274年に陸抗が死ぬと、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。
そして279年、晋は30万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の将兵には孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、翌280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した。
20世紀に入り、呉に関連した考古学上の発見が相次いだ。1984年に南京市近郊の馬鞍山で発見された呉の将軍朱然の墓や、1996年に長沙市で発見された10万枚以上の簡牘(走馬楼簡牘)などにより、呉の文化や地方政治について研究が続けられている。2006年には、呉の時代に作られたと見られる古墓が南京市で発見された。
諡号廟号姓名在位元号
大帝太祖孫権222年 - 252年
黄武 222年 - 229年
黄龍 229年 - 231年
嘉禾 232年 - 238年
赤烏 238年 - 251年
太元 251年 - 252年
神鳳 252年
会稽王
(廃帝)?孫亮252年 - 258年建興 252年 - 253年
五鳳 254年 - 256年
太平 256年 - 258年
景帝?孫休258年 - 264年永安 258年 - 264年
末帝?孫皓264年 - 280年元興 264年 - 265年
甘露 265年 - 266年
宝鼎 266年 - 269年
建衡 269年 - 271年
鳳凰 272年 - 274年
天冊 275年 - 276年
天璽 276年
天紀 277年 - 280年
関連項目
中国帝王一覧
八絶
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更新日時:2008年9月4日(木)15:21
取得日時:2008/10/01 04:03