252年に孫権は死去し、10歳で孫亮が皇帝となった。10歳児に政治が理解できるはずもなく、太傅の諸葛恪が政権を握る。諸葛恪は孫権の死後を狙って侵攻してきた魏軍に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗に終わる。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺された。
諸葛恪の死後、代わって孫峻が丞相となり政権を握る。孫峻は民衆の苦しみに関心を払わず、自分の権勢と奢侈のためだけに権力を振り回したため、不満を持った者たちが孫峻の暗殺を謀るも失敗に終わった。結局孫峻は256年に唐突に(諸葛恪に殴られる夢を見て、恐ろしさのあまり)死去し、その権力は従弟の孫?(そんちん、?は糸偏に林)に引き継がれる。
孫?は反対勢力を潰して政権を握るが、この頃になると孫亮にも自覚が芽生え始め、自らの政治を行おうと考え始める。258年、魏で諸葛誕の反乱が起きる。これに孫?は介入するが失敗に終わる。孫?の影響力が低下したことを見た孫亮は孫?の排除を図るが、逆に孫?により廃位され、孫権の六男・孫休が代わりに擁立された。
孫休は即位すると、巧みに孫?への反感を覆い隠して孫亮のように廃位されることを避け、孫?が油断したところで逆クーデターを起こして孫?を誅殺した。親政を始めた孫休は五経博士の設置、農政・治水事業、汚職の追及など立て続けに改革を打ち出し、衰退に向かっていた呉を一時的に食い止めた。しかしその後の孫休は学問とキジ狩りに没頭するようになり、政治は重臣の濮陽興と張布に任せきりとなった。
263年、魏の司馬昭が派遣した軍により蜀都・成都が陥落。遂に三国の一翼が崩れた。同時に呉では交州が離反した。魏の蜀侵攻に対して呉からも兵を送り、蜀の救援、それがだめなら蜀の領土を少しでも奪うことを目指したが、いずれも失敗し、強大化した魏(司馬氏政権)とまともに国境を接することになった。
翌年に孫休が死去し、孫休の子供はまだ幼いことから孫権の三男で廃太子であった孫和の子の孫晧が擁立された。孫晧は聡明な文武両道の人物と謳われており、擁立した濮陽興と張布の期待もそこにかかっていた。しかしこれは呉にとって最悪の決定であった。
孫晧はまず、閣僚の一新と父・孫和への皇帝号の追号し、食料開放による貧民救済などを行ったが、その後刑法を乱用し孫休の妻と息子たちを皆殺しにし、莫大な費用を投じて武昌への遷都を行いそこに壮麗な宮殿を建てた末、その翌年には再び建業へと都を戻すということを行った。
武昌への遷都を行った265年、司馬炎が魏の皇帝曹奐より禅譲を受けて晋を建てた。呉にとっては幸いなことに司馬炎即位直後の晋ではすぐに遠征軍を繰り出すことはせず、呉は孫晧の政治で腐敗はしていたが、まだしばらくの平和を得た。
この頃になると国内では孫晧に対する反乱も起きるようになるが、孫晧は省みずに後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺していた。この中で陸遜の息子の陸抗が呉の防衛を一人で支えていたが、274年に陸抗が死ぬと、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。
そして279年、晋は30万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の将兵には孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、翌280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した。
20世紀に入り、呉に関連した考古学上の発見が相次いだ。1984年に南京市近郊の馬鞍山で発見された呉の将軍朱然の墓や、1996年に長沙市で発見された10万枚以上の簡牘(走馬楼簡牘)などにより、呉の文化や地方政治について研究が続けられている。2006年には、呉の時代に作られたと見られる古墓が南京市で発見された。
諡号廟号姓名在位元号
大帝太祖孫権222年 - 252年
黄武 222年 - 229年
黄龍 229年 - 231年
嘉禾 232年 - 238年
赤烏 238年 - 251年
太元 251年 - 252年
神鳳 252年
会稽王
(廃帝)−孫亮252年 - 258年建興 252年 - 253年
五鳳 254年 - 256年
太平 256年 - 258年
景帝−孫休258年 - 264年永安 258年 - 264年
末帝−孫皓264年 - 280年元興 264年 - 265年
甘露 265年 - 266年
宝鼎 266年 - 269年
建衡 269年 - 271年
鳳凰 272年 - 274年
天冊 275年 - 276年
天璽 276年
天紀 277年 - 280年
関連項目
中国帝王一覧
八絶
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更新日時:2008年8月11日(月)23:10
取得日時:2008/08/19 19:39