欧州キリスト教世界とイスラム世界、そして中華文明圏においては文明、民族、国家の体制が大きく異なり、君主号とその成立過程も大きく異なるが、君主号において「皇帝」号を最高の称号とする点においては共通している。もっとも、「皇帝」号とは中華文明特有の称号であり、ヨーロッパの「皇帝」号は、通常の国王よりも優位にある君主号を皇帝と意訳したものに過ぎない。
但し、少なくともいえることは、「皇帝」とは近隣諸国の君主の中で優位にある君主の称号であるという点である。以下に「皇帝」号及び「皇帝」号に相当する君主号の事例を詳述する。
中国では殷、周の時代まで君主の称号は専ら王であり、その下の諸侯が公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵を与えられていた。しかし、戦国時代になると、有力諸侯がみな王号を称したため、やがて秦王の政が中華を統一すると、王の上位に立つ称号として「皇帝」を名乗るようになった。これが始皇帝である。唐代には高宗が「皇帝」ではなく「天皇」を名乗ったこともある。
日本では「大王」(おおきみ)が君主号であり、対外的には後漢、魏、南朝より倭国王として封ぜられていたが、やがて関係は途絶えた。隋が中国を統一し、対外関係を通じて国家意識が再構築される時期に「日本」の国号と前後して「天皇」号が導入され(具体的時期には諸説)、「皇帝」と同格の称号を名乗ることとなった。但しこれは国内向けであり、隋、唐への朝貢使は日本国王の名代と名乗った。この点は越南や当時の朝鮮とも類似している。
明治政府は独立国の君主号を一律に「皇帝」とした。天皇も当初は対外的に「日本国皇帝」を称し、国内的にも一部で「皇帝」号を使用したが、最終的には対外的にも「天皇」と称した。
古代、欧州において「皇帝」の称号は、専らローマ皇帝を意味した。当初のローマ皇帝即位の要件は元老院・市民・軍による推戴であり、キリスト教国教化の後は教会の擁護者という位置付けが加わる。
ローマ帝国の東西分裂後、西ローマ帝国では5世紀のロムルス・アウグストゥルスを最後に一旦皇帝が存在しなくなるが、800年にローマ教皇レオ3世がカール大帝を戴冠させる。これが後に事実上のドイツの君主号となる神聖ローマ皇帝の始まりである。
一方、東ローマ帝国は15世紀まで存続し、その君主号はやはりローマ皇帝であった。東ローマ帝国の滅亡後は、ルーシのモスクワ大公が第3のローマ論と女系の血統を根拠に東ローマ帝国の継承権を主張し、カエサルに由来するツァーリ(ロシア皇帝)を名乗るようになった。
やがて19世紀に入ると、欧州諸国の指導者がローマ皇帝からの由来なしで「皇帝」の称号を名乗るようになっていった。フランスではナポレオン・ボナパルトが国民投票とローマ教皇からの加冠をもってフランス皇帝に即位する。これに続き、神聖ローマ皇帝を事実上世襲していたハプスブルク家は、神聖ローマ帝国の終焉と前後してオーストリア皇帝を称するようになった。さらにプロテスタントのホーエンツォレルン家は、ドイツ統一と諸侯による推戴を根拠に、教皇からの加冠なくドイツ皇帝に即位した。
可汗(天可汗)、スルターン、サパ・インカ、マハーラージャディラージャなども「皇帝」と訳されることが多い。
一般的に君主号の多くは「国王」と訳される。故に「国王」号とは君主国で最も代表的な君主号であるといえる。独立国の場合、一概には比較できないが、一般的に「国王」号とは「皇帝」号の下位の君主号として捉えられることが多い。特に、中華王朝においては、その軍事力と経済力を背景に近隣諸国を従属国としてとらえ、朝貢国の君主に国王の称号を授ける冊封儀礼を行っていた。このため、中華王朝では近隣諸国の国王を形式的臣下として遇していた。
日本においては、大和政権に於いて君主号を「おおきみ」としており、漢字の導入の際「大王」の字を当てた。中華王朝との朝貢・冊封関係があった時代には「倭国王」などの称号を受けていた。しかし次第に「天皇」号をもって君主の称号となしたため、以降、天皇家に属する君主の間では「国王」は原則称号として用いられていない。しかし、南朝の親王の一人懐良親王は明に朝貢して「日本国王」に冊封されており、そのすぐ後の室町幕府3代将軍足利義満は日明貿易を通じ、天皇家を抑えて「日本国王」に冊封されたことで、室町時代には対外的に外交称号として「日本国王」号が用いられた。これは江戸幕府においては踏襲されず、一時期日本国王を名乗った事もあるが、「日本国大君」として外交交渉を行った。
琉球王国では、君主は国内では「御主」と称したが、外交称号としては「琉球国王」を称している。
国王に相当する英語の称号としては、キング(king、便宜的に英語を用いる)などがある。