当時フランスのルイ14世と戦争を始めたばかりだったオラニエ公は、イングランド議会の要請に同意し、オランダ軍2万を率いて1688年11月5日にイングランドのデヴォン海岸に上陸した。この事実を知ったジェームズ2世は議会に譲歩を示したが、すでに手遅れだった。
この頃、イングランド軍内部ではジェームズ2世に任命されたカトリックの士官に対する不服従が広がり、彼らはオランダ軍と戦おうとはしなかった。オランダ軍がロンドンに迫ると、ジェームズ2世の次女でやはりプロテスタントとして育てられていたアンが姉の夫であるウィレムのもとに逃亡し、ジェームズ2世が創設した常備軍の司令官ジョン・チャーチルも早々に抵抗を放棄し、戦わずしてオランダ軍に投降した。
不利を悟ったジェームズ2世は、まず王妃と王子をフランスに亡命させ、1688年12月11日自らも亡命に走ったが、ケントで捕らえられた。王が何の抵抗もせず亡命に走って捕らえられたことは議会側には思いもかけない展開であったが、議会はメアリーの立場を重んじて王を処刑せず、その亡命を認めた(処刑すれば殉教者として同情が集まるという判断もあった)。
議会側は当初メアリーの単独即位を望んでいたが、すでにロンドンを制圧してイングランドを軍事的に支配下においたウィレムがそれを不服とし、チャールズ1世の外孫である自身にも王位を要求したので、両者の共同統治と決まった。ここにウィレムはオランダ統領を兼ねたまま、ウィリアム3世としてイングランド王にも即位することになった。
1689年2月13日、ウィリアム3世とメアリー2世は即位すると、王位に対する議会の優位を認めた「権利の宣言」に署名し、同年「権利の章典」として発布された。
革命はイングランドではほとんど無血で成功したものの、やがてスコットランドがジェームズ2世に忠誠を誓って反乱を起こした。さらにジェームズ2世がフランスのルイ14世の支援を受け、フランス軍を率いてアイルランドに上陸すると、カトリックのアイルランド人がこれに同調した。ジェームズとその男系の子孫の復位を求める支持者をジャコバイト(ジェームズ党の意)と呼ぶ。
スコットランドとアイルランドの反乱を鎮圧させるために多くの血が流れたが、1690年7月1日にアイルランドのボインで行われた戦いでイングランド軍はジェームズ2世率いるフランス・アイルランド連合軍を破り、反乱は終息した。ジェームズ2世は再びフランスに逃れ、イングランドとスコットランドの王位はウィリアム夫妻に帰す。革命は終結したものの、ジェームズ2世は退位を良しとせず、フランスの干渉もあり、また反フランスの立場をとるウィレム3世の政策により、そのままファルツ継承戦争(大同盟戦争、1690年)になだれ込むことになった。
関連項目
名誉革命の年表
ウィリアム3世 (イングランド王)
市民革命
ウィリアムとメアリー
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更新日時:2008年7月24日(木)12:59
取得日時:2008/10/01 17:02