戦前は、戦時戦後の一時期を除き旧両国国技館が使われ、昭和2年から7年までの地方本場所は、大阪市・京都市・福岡市・広島市で開催の実績がある。
初場所
古くは1月場所は「春場所」と呼ばれた。昭和28年(1953年)に大阪場所が出来て年4場所制となった時には、1月場所は「初場所」か「春場所」かで協会発表に混乱があり、騒動になった。後で当時責任者だった年寄楯山(元幡瀬川)の明かしたところでは、マスコミを利用した話題づくりだった。
この場所で、大関や横綱への昇進を果たした力士は多く、「祝儀場所」の異名もある。
中日8日目は天覧相撲になることが多い。
平成元年(1989年)の初場所(=平成最初の場所)は1月8日(日曜日)に初日の予定であったが、昭和天皇の崩御の関係で翌日の1月9日(月曜日)に変更。初日が日曜日以外の曜日に行われたのは15日制施行後初めてのことであった。
名勝負
昭和35年(1960年)12日目柏戸-大鵬新入幕で連勝する大鵬に、小結柏戸が「止め男」として当てられた柏鵬初顔合わせ。後の柏鵬戦とは逆に攻めまくる大鵬を、柏戸が逆転の出し投げで下した。
昭和56年(1981年)千秋楽千代の富士 - 北の湖(優勝決定戦)ウルフフィーバーの巻き起こった場所。14連勝の千代の富士を1敗で追う北の湖が吊り出しに破って決定戦に持ち込んだが、この時北の湖の膝が悪いのを見破った千代の富士が上手出し投げで決定戦を制し初優勝。大関昇進も果たす。
春場所
呼称については初場所も参照。
多い年では200人前後の新弟子が初土俵を踏み、「就職場所」の異名がある。
「荒れる春場所」と呼ばれ、番付上位が負けるいわゆる波乱の結果が多いとされる。
もともと大阪には大坂相撲の歴史があって相撲人気の根強い土地であり、毎年大いに盛り上がる場所である。
朝潮太郎 (3代)がこの場所で強く、昭和31年(1956年)から3連覇するなど通算5回の優勝のうち4回を大阪で達成、「大阪太郎」と呼ばれた。他に北勝海が通算8回優勝のうち4回が大阪での優勝。
横綱が負けた時に起こる「座布団の舞」、この場所では他場所に比べてより多くの座布団が舞う。
名勝負
昭和35年(1960年)千秋楽若乃花-栃錦史上初めて、全勝力士同士が千秋楽結びの一番で優勝を争う形になった。栃錦が無理にまわしをきりにいったところを若乃花が一気に寄り、自身初の全勝優勝。栃若最後の一番にもなった。
昭和50年(1975年)千秋楽貴ノ花-北の湖(優勝決定戦)国民的人気を背負った貴ノ花の初優勝。両差しから北の湖を寄り切って優勝が決まった瞬間には、負けた北の湖が「天井が見えなかった」と後に語ったほどの座布団が舞った。
80年代、昭和最後の大横綱千代の富士と後に貴乃花として平成の名横綱になる貴花田の初顔合わせの一番。この一番で、千代の富士は寄り切られて完敗。貴花田は初金星を獲得。一方、千代の富士は2日後に現役引退。力士の世代交代の時を世間に知らしめた一番となった。
名古屋場所
本場所となったのは昭和33年(1958年)で、6場所の中では一番後である。
日本相撲協会と中日新聞社の共催となっている。相撲協会以外の団体が本場所の主催元になっているのは名古屋場所だけである。このため、会場の愛知県体育館の館内には中日新聞社の社旗も見られる。また、中日新聞社で桝席の販売も行われている。
「荒れる名古屋」で知られる。夏場の開催となって、体調管理が難しいことから調子を落とす上位力士も多いのが、その要因と言われている。生涯ただ一度の優勝をこの場所で果たした力士も多い。
かつては場所後の夏巡業の日程を確保するために6月下旬から始まったこともあった。
大正12年(1923年)の関東大震災による東京の国技館焼失のため、翌年の一月場所が名古屋市内の仮設国技館で行われた。
昭和47年(1972年)に高見山大五郎が外国人力士として初めての優勝を遂げた。
名勝負
平成5年(1993年)千秋楽曙-貴ノ花-若ノ花(優勝決定戦)昭和63年(1988年)春初土俵の同期生3人による巴戦。横綱昇進のかかる大関貴ノ花が結びの一番に勝って決定戦に持ち込んだが、曙が連勝、横綱初優勝を決めた。場所後若ノ花は大関昇進。優勝-優勝同点の貴ノ花の昇進は見送られた。
秋場所2006年、土俵に上がり、大相撲秋場所千秋楽の優勝者表彰式に臨む安倍晋三