吉野川
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吉野川開発史

「坂東太郎」(利根川)・「筑紫次郎」(筑後川)と並び「四国三郎」と渾名される吉野川の名は「ヨシが河原に多く繁る川」から来たと言われている。四国四県を網羅するその水系は流域の生命線として多大なる恩恵を与えると同時に、数多くの水害の歴史を持つ。有史時代では886年仁和2年)の洪水が初出である。


徳島藩の治水事業

吉野川の河川開発が本格的に開始されたのは江戸時代に入ってからのことである。1585年天正13年)、長宗我部元親四国征伐で下した豊臣秀吉は、功のあった蜂須賀正勝(蜂須賀小六)を阿波国一国17万石に封じた。これより蜂須賀氏による阿波支配は始まる。後に蜂須賀家政蜂須賀至鎮父子は徳川家康に与し大坂の陣の功績により淡路国も与えられ阿淡25万石の太守となった。以後徳島城を本拠として代々の藩主は領国の経営に当たるが、最大の課題は吉野川の治水・利水であった。

特に阿波は、国内での豪雨の他に上流の土佐藩領内で豪雨が降ると、阿波で雨が降らなくても水害に見舞われる状況であった。このため阿波での豪雨に伴う水害を「御国水」、土佐藩内での豪雨に伴う水害を「阿呆水(土佐水)」と呼んだ。初期の対策としては築堤の他水防竹林の植生があり、「筍奉行」を設置して竹林の整備を重点的に行った。一方住民の水防対策としては「石囲い」や石垣による住居嵩上げで防衛策を取った。これは木曽川の水屋に似たものであるが、その石垣は均整の取れた見事なものである。徳島県名西郡石井町に現存する「田中家住宅」は石垣で囲まれた江戸時代の屋敷構えを残し、国の重要文化財に指定されている。下る19世紀中期には貞光代官・原喜右衛門によって「藤森堤」が完成しているが難工事による工費増額等が要因で、藩より「見積もり違い・不調法」の廉で切腹させられている。


新田開発と干拓

利水に関しては、新田開発に絡む事業が多い。元来阿波は藍染の盛んな地域で稲作よりも普及していた。だが、人口増加や天候不順に伴う飢饉の頻発、藩財政の逼迫等複合的要因から新田開発による年貢増徴を藩は図ろうとした。だが、実情は藩主導というよりは筑後川と同様に庄屋等の民間主導によるものである。1692年元禄5年)名東郡島田村庄屋・楠藤吉左衛門は島田村・蔵本村・庄村3か村の新田開発を図るため、旧佐吉川筋に幅10間 (18m)・延長200間 (360m) の用水路開削に着手した。だが藩からは規模の半分しか許可されなかったため、計画を縮小しての工事となった。1699年(元禄12年)完成した袋井用水は、その後も子の楠藤善平、孫の楠藤繁左衛門によって拡充され3か村数百町歩を潤した。なお藩から御褒美米30俵が下賜されたが吉左衛門は丁重に辞退している。

1752年宝暦2年)第十堰が完成している。当初は徳島城防衛のために第4代藩主・蜂須賀綱通が別宮川(現在の吉野川)を開削したのだが、その後の洪水で別宮川が本流となってしまい、吉野川本流(現在の旧吉野川)に水が流れなくなったので水量調整と灌漑を目的として第十堰は完成した。一方土佐藩領内の長岡郡では、家老野中兼山により地蔵寺川筋に新井堰を建設、そこから新井溝用水を開削・引水し長岡郡内の灌漑を図った。

その旧吉野川・今切川筋であるが、河口部において新田開発を目的とした干拓事業が行われていた。嚆矢となったのは17世紀中頃に大坂の豪商・三島泉斎によって着手された笹木開拓であるが、洪水や波浪によって事業は頓挫し泉斎は破産。その後数代を経て難工事は完成した。続く1783年天明3年)には伊澤亀三郎による開拓が行われた。これは大坂の豪商・鴻池家の援助により行われ、子の伊澤速蔵・孫の伊澤文三郎の3代に亘り笹木開拓地の北端・西端に石積み堤防を築き波浪・洪水を防止、開拓を成功させた。これを住吉新田と呼び現在でも伊澤家3代の遺徳が偲ばれている。さらに1804年文化元年)には坂東茂兵衛によって豊岡開拓が行われ、防潮・防風を目的に20万本の松を植林し築堤。今切川下流の新田開発を図った。この開拓は孫で今切川用水裁判人の役職に就いていた豊岡茘敦(れんとん)によって完成を見た。

こうして新田開発とそれに伴う利水事業は進められたが、総合的な灌漑は遅々として進まなかった。こうした中1850年嘉永3年)に後藤庄助が徳島藩勧農方に「吉野川筋用水存寄申上書」を提出、さらに1865年慶応元年)には庄野太郎が「芳川(吉野川)水利論」を著し吉野川南岸用水の必要性を論じた。この計画は後の麻名用水事業に結実して行く。一方豊岡茘敦も1874年明治7年)に「疎鑿迂言」を著し吉野川北岸部の用水整備と藍染依存からの転換を論じた。だが彼の意見が実現をみるには1990年(平成2年)の吉野川北岸用水事業の完成を待たねばならなかった。


明治期の河川開発?麻名用水と第十樋門?

明治時代に入り近代河川技術が吉野川にも導入された。1884年(明治17年)に全国の河川整備に携わったヨハニス・デ・レーケは吉野川を視察。翌1885年(明治18年)より旧内務省徳島県の共同事業として「吉野川改修工事事業」が着工した。だが1888年(明治21年)7月の水害で流域は大きな被害を受け、原因を河川整備の不備・失策と見た住民は蜂起して工事事務所を襲撃し改修事業を中止に追い込んだ。この暴動を「覚円騒動」と呼び、以降河川改修は中断した。

一方利水に関しては1906年(明治39年)より麻名用水の建設が開始された。元来は麻植郡名西郡の農地開墾と藍染から稲作への転換を目的に、麻植郡郡長・井内恭太郎が中心となって1899年(明治32年)に「麻植・名西郡水利組合」を結成したことが発端である。だが藍染を生業とする業者や負担金分担に反対する者による激烈な反対運動で一時頓挫した。ところが1903年(明治36年)ドイツ製化学染料が輸入されたことにより藍染業者は大打撃を受け、翌明治37年の大旱魃も重なって用水開鑿の重要性がにわかにクローズアップされた。名西郡郡長に転出していた井内は用水建設の総指揮を執り、1912年(明治45年)に完成させた。さらに1914年大正3年)には用水機能補完のための飯尾川引水事業も完成。吉野川南岸の灌漑は飛躍的に整備された。

大正時代に入ると「覚円騒動」で中断していた治水事業も復活。吉野川各地に水刎水制である「ケレップ水制」が設置された。また、旧吉野川との分流点・第十堰付近には旧吉野川の洪水調節・河川維持用水を目的に1923年(大正12年)に第十樋門が建設された。当時日本一の樋門として吉野川の名所となり多くの見物客が訪れた。その後1927年昭和2年)に吉野川築堤は完成し第1期吉野川改修事業は完了した。この堤防はその後流域を襲った1934年(昭和9年)の室戸台風1945年(昭和20年)の枕崎台風、さらには吉野川最大の出水となった1954年(昭和29年)の台風12号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風1961年(昭和36年)の第2室戸台風においても破堤せず洪水防御に役立った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki