合肥の戦い(がっぴのたたかい)は、中国後漢末期に、曹操領の南方の要衝・合肥を巡って曹操と孫権の間で行われた戦い。後に三国時代を通じてこの方面では攻防が続けられたがついにこの戦線の決着がつくことは無かった。なお濡須口の戦いについてもここで記述する。
215年に起こった戦いが有名で、劉備が孫権に荊州の一部返還を求めた際、曹操を攻めるように依頼したことから始まった。孫権率いる大軍勢が張遼・楽進・李典を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。
目次
1 合肥城の位置と戦略上の意義
2 劉馥による合肥城整備
3 208年の合肥の戦い
4 209年の合肥の戦い
5 212年から213年の濡須口の戦い
6 215年の合肥の戦い
7 216年から217年にかけての濡須口の戦い
8 222年から223年にかけての三方面での戦い
8.1 事前の経緯
8.2 戦いの経過
8.2.1 洞口の戦い
8.2.2 江陵の戦い
8.2.3 濡須口の戦い
8.3 戦後
9 233年と234年の合肥の戦い
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合肥城は長江支流の一つから突き出たような位置の巣湖の北岸に位置し、曹魏勢力からすると長江流域に突きつけた前線拠点という位置で、孫呉に対する攻撃と防御の一大拠点であった。対して孫呉勢力からしてみれば、長江流域の完全掌握のためにも、あるいは外征のためにも確保しておく必要がある拠点であった。合肥城は張遼・楽進・満寵などといった曹魏の軍の重鎮が防衛にあたった。それに対し、呉は巣湖南岸の濡須口に砦を整備するなどしてこれに対峙した。
劉馥による合肥城整備
200年、孫策が急死したため、孫策により廬江太守に任命されていた李術は孫権に反逆し、揚州刺史の厳象を殺害し、それに乗じてか廬江の梅乾、雷緒、陳蘭らが数万人を集めて蜂起するなど長江、淮河一帯は混乱の様相を呈した。この時袁紹と戦っていた曹操はこの方面を鎮撫するには劉馥が適任であると考え、上奏して、劉馥を揚州刺史とした。
劉馥は馬で単身当時空城であった合肥城に入城すると行政機関を整備し雷緒らを帰順させ、屯田、灌漑の整備、教育機関の整備などを行い民政を整え備蓄を増すなどした。また劉馥は国家にとって合肥城が要衝になると考え、合肥城の城壁、土塁の強化や城壁に取り付いた兵を打ち払うための木や石、むしろ、魚油を備蓄するなど戦争の準備をした。この劉馥による合肥城の整備は強固なもので後の孫権軍をおおいに苦しめることとなる。
208年、赤壁の戦いで孫権、劉備の連合軍は烏林で曹操の軍を打ち破り曹操はまず江陵にそして荊州守備を部将たちに任せると許昌へと撤退した。周瑜らの曹操迎撃軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を率いて江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。
曹操は張喜と蒋済に1000人の軍を率いて即座に救援として派遣し汝南を通過する際にその地域の兵をさらに率いさせることとした。張喜と蒋済の軍はそもそも寡兵であった上に疫病によりさらにそこから目減りしていたが、蒋済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、それにより本当に4万の軍勢が救援として接近していると考えこの方面から撤退した。
209年、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。しかし史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。
212年、前年に馬超以下関中の軍閥を破った曹操は自ら軍を率いて濡須口に侵攻を開始した。馬超を倒した以上曹操は西部にまわす兵力をある程度減らすことも出来、さらに関中以西の動員力をある程度掌握していたはずで、この時曹操は赤壁時以上の大軍を率いていた可能性もある。これに対し孫権も自ら出陣して対陣した。
曹操は夜中出撃し中州に上陸したが孫権軍の攻撃を受け退却した。この後戦線は膠着し、長期戦の様相となる。孫権は曹操が出撃してこないのを見て船に乗り自ら強行偵察に出て曹操の船陣に盛大に音楽をならしながら突入する。その後も孫権は積極的に戦いを挑もうとしたが、流石に無謀に過ぎると考えたのか孫瑜などはこれを諫めている。
その後、曹操は孫権の陣の一部を攻撃して打ち破り部将の公孫陽を捕らえるなどしたが決定打には欠き、対陣が長期となったため撤退した。曹操はその際「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と周囲に語ったという。
この年、劉備との荊州統治の係争が一応の解決を見たことにより、また前年に廬江郡都の皖城を奪取していたこともあって、孫権は再び北方に軍を向ける余裕ができた。孫権は十万と号する大兵力を率いて陸口からそのまま出撃し、合肥城攻撃を開始した。
この時曹操側は合肥城に張遼、李典、楽進という歴戦の将を配していたものの兵力は七千人程であった。張遼は孫権の大軍が迫ると、決死隊を募って合肥城を楽進に任せて李典とともに自らその部隊を率いて孫権の陣に奇襲をかけることとした。これはこの攻撃をもって孫権を敗走させようというものではなく、合肥城が最終的には包囲されるであろうということを前提にして、大軍の孫権軍の出鼻をくじき士気を下げることが目的の作戦行動であった。
この時張遼とともに合肥にあった李典は、かつて張遼が呂布の部将であり、そして呂布の勢力に伯父を殺されていたことから張遼と折り合いが悪く、張遼は李典が自分の命令に従わないのではないかと心配したが、李典は国家の緊急事態にあっては私怨は問わないと断言し張遼と共に出撃することとなった。