合肥の戦い
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208年の合肥の戦い

208年、赤壁の戦い孫権劉備の連合軍は烏林で曹操の軍を打ち破り曹操はまず江陵にそして荊州守備を部将たちに任せると許昌へと撤退した。周瑜らの曹操迎撃軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を率いて江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。

曹操は張喜と蒋済に1000人の軍を率いて即座に救援として派遣し汝南を通過する際にその地域の兵をさらに率いさせることとした。張喜と蒋済の軍はそもそも寡兵であった上に疫病によりさらにそこから目減りしていたが、蒋済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、それにより本当に4万の軍勢が救援として接近していると考えこの方面から撤退した。


209年の合肥の戦い

209年、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。しかし史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。


212年から213年の濡須口の戦い

212年、前年に馬超以下関中の軍閥を破った曹操は自ら軍を率いて濡須口に侵攻を開始した。馬超を倒した以上曹操は西部にまわす兵力をある程度減らすことも出来、さらに関中以西の動員力をある程度掌握していたはずで、この時曹操は赤壁時以上の大軍を率いていた可能性もある。これに対し孫権も自ら出陣して対陣した。

曹操は夜中出撃し中州に上陸したが孫権軍の攻撃を受け退却した。この後戦線は膠着し、長期戦の様相となる。孫権は曹操が出撃してこないのを見て船に乗り自ら強行偵察に出て曹操の船陣に盛大に音楽をならしながら突入する。その後も孫権は積極的に戦いを挑もうとしたが、流石に無謀に過ぎると考えたのか孫瑜などはこれを諫めている。

その後、曹操は孫権の陣の一部を攻撃して打ち破り部将の公孫陽を捕らえるなどしたが決定打には欠き、対陣が長期となったため撤退した。曹操はその際「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と周囲に語ったという。


215年の合肥の戦い

この年、劉備との荊州統治の係争が一応の解決を見たことにより、また前年に廬江郡都の皖城を奪取していたこともあって、孫権は再び北方に軍を向ける余裕ができた。孫権は十万と号する大兵力を率いて陸口からそのまま出撃し、合肥城攻撃を開始した。

この時曹操側は合肥城に張遼李典楽進という歴戦の将を配していたものの兵力は七千人程であった。張遼は孫権の大軍が迫ると、決死隊を募って合肥城を楽進に任せて李典とともに自らその部隊を率いて孫権の陣に奇襲をかけることとした。これはこの攻撃をもって孫権を敗走させようというものではなく、合肥城が最終的には包囲されるであろうということを前提にして、大軍の孫権軍の出鼻をくじき士気を下げることが目的の作戦行動であった。

この時張遼とともに合肥にあった李典は、かつて張遼が呂布の部将であり、そして呂布の勢力に伯父を殺されていたことから張遼と折り合いが悪く、張遼は李典が自分の命令に従わないのではないかと心配したが、李典は国家の緊急事態にあっては私怨は問わないと断言し張遼と共に出撃することとなった。

張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛をつぶして将兵に振る舞い翌朝出撃するとした。

明け方張遼は鎧を着込み戟を持ち自ら陣頭に立ち出撃した。張遼は孫権の陣に斬り込み自ら数十人の兵を斬り、二人の将校を斬り殺し孫権の防御陣を突破し孫権の間近に迫った。孫権は張遼の鋭鋒の前に自ら長戟を振るって身を守りつつ高い丘の上に逃走した。張遼はこの時自らが孫権に迫っていることを認識していたが、具体的にどの兵が孫権なのかは把握することは出来なかった。このようなことから孫権の陣の秩序はかなり混乱していたことが伺える。

張遼は孫権が丘に逃げたのを見ると孫権に「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。この時孫権は自ら戟を振るって戦っていたのであるから、つまり張遼は孫権に一騎打ちを挑んだのだと思われる。さすがに孫権もこれには応じず、ここでやっと張遼の率いる軍が寡兵であることを見てとり張遼の軍を幾重にも包囲した。

張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけて、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲、脱出に成功したが、この張遼の脱出はあまりに強行だったのか数十人の兵しか脱出させることが出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された張遼の兵たちが「将軍は我らを見棄てられるのですか」などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈して脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し城まで後退し守備を固めた。

その後、孫権は合肥城を攻囲したが、陥落させることができず、また陣中に疫病が発生したこともあって僅かに10日あまりで退却を開始した。孫権は撤退時に自ら最後衛に位置し、軍中でも上位の武将らとともに撤退の指揮を執っていた。張遼は孫権が戦場に僅かな兵とともに残っていることを察知し、これに楽進らとともに急襲をかけた。

張遼は孫権の間近に迫り、孫権は自ら馬上から弓を放って防衛した。孫権の側にいた凌統韓当呂蒙甘寧蒋欽陳武らも奮戦し、凌統が配下の300人と共に孫権の退却を援護し、陳武は乱戦の中で戦死するに至ったが、孫権はなんとか渡し場にまで来ることができた。しかし渡し場はすでに張遼の手によって撤去されており、孫権は乗船することが出来なかった。しかし孫権の側仕えの谷利が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせたため孫権は無事乗船することができた。

凌統は、配下の300人が大打撃をうけ、自らも全身に傷を負いながらなお戦ったが、孫権が無事撤退したのを見ると自らも撤退したが、渡し場は壊れていたので鎧をつけたまま河に飛び込んだ。孫権はすでに船に乗っていたが、凌統が無事帰還すると狂喜した。しかし、凌統の配下300人は全滅していた。

張遼は後に、孫権軍の降兵から自らが目撃した「赤髭で背が高く短足で馬を巧みに操り騎射のうまい将軍」が孫権自身であったことを知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って捕まえ損ねたことを惜しんだ。


216年から217年にかけての濡須口の戦い

この年曹操は自ら軍を率いて濡須口を攻撃した。この攻撃は曹操軍の総力戦という規模であり、赤壁以降留守司令官の性格の強かった夏侯惇以下、主だった武将の多くが参加し、合肥の張遼も攻撃に参加した。曹操は軍を率いて対峙する一方で、山越族に反乱を起こさせるなどの政治工作も行った。

孫権も自ら軍を率いて防衛にあたったが、軍の衝突が起こる直前、董襲の乗艦が突風で大破、沈没し董襲が死亡するという事件が起こった。この時董襲は部下に下船するように説得されたが、将軍としての責務を説き最後まで艦の復帰を図った。

この後本格的な戦闘が始まった。曹操の攻撃に対し、孫権は呂蒙を指揮官に任命し予め構築しておいた土塁の指揮を執らせ、1万の強力な弩を以って曹操の先鋒部隊を攻撃しこれを撃破した。甘寧は僅か百人の部隊で夜間に曹操の陣を襲撃した。

孫権軍は呂蒙、甘寧らが以上のような活躍を見せたものの、曹操を打ち破るには至らなかったし、また曹操の側も大軍を率いながらも決め手に欠き、この戦場と方面軍二十六軍を夏侯惇の総指揮とし曹操自身は許へと撤退を開始した。

このような状況の中で孫権は使者を遣って曹操に降伏を申し出た。両者の利害が一致したためか曹操はこれを受け入れ両者は軍を引いた。この両者の関係は夷陵の戦いで呉が蜀を大破するまで続くこととなる。


222年から223年にかけての三方面での戦い


事前の経緯

217年の濡須口の戦いにおいて孫権は曹操に降伏した。219年には曹操と同盟を結び共同で劉備を攻め、劉備軍の不意をつき荊州の諸を奪い、関羽を討ち取った。221年には曹丕は孫権を王にとりたてた。しかしながらこの臣従は一時的なものであり、曹丕から太子の孫登を人質に差出すように要求されても適当に言い訳をつけてこれを断わるなどしていた。

222年6月に1年近くの戦いの末に呉はの遠征軍を打ち破る(夷陵の戦い)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki